学校では受精、出産、避妊と、生臭さに満ちた肉体的なことは教えてくれるが、恋愛から出発する、広大かつ深遠なる精神的なことは教えてくれない。
私の世代もそうで、現代国語や古典で恋愛感情が取り上げられたような記憶があるが、当時の私の頭のなかは生々しい、血と汗と涙に濡れたセックスのことしかなかった。
そのせいでいくつも道を踏み外してきた私も含めた大人たちにとって・・・
今の子供たちは、我々の世代より、容易に生々しい情報がいくらでも入る分、道の踏み外し方がほんとうにシャレにならない。
というわけで。
犬神チルドレンの親御さんたちの提案で、私が恋愛専門の講師として公民館の一室にて講義をすることになった。
子供たちの夏休みがスタートするのと同時に、週一回の予定で1時間。
第一回は、最近の女の子たちがよく口にする、「いい女とは何か?」に的を絞ろうと思っている。
いい女とは何か?
私に言わせれば、ズバリ、男を狂わせるような女である。
祖父の飲み友達(夜遊び友達でもあった)だった永井荷風は、こう書いている。
どんな女でもいいです。心底から私を有頂天にさせてくれる、身も世も忘れさしてくれるような女なら、どんな女でもいいです。若くっても婆でも美人でも醜婦でも、何でもいいです。とにかく、その女に捨てられたという時には、多少なりと精神上に傷害を残す位な濃艶に狂激な女が欲しいのです。
「新橋夜話」からの引用だが、祖父も酒の席でしつこいほどこう言われたと日記に書き残している。
これが男側の心から望む、いい女の“かたち”で、逆に女側の心から望む、いい女の“かたち”は、ジェーン・オースティンの「高慢と偏見」に見られる。
若い御婦人というものは、はじめて男に求愛されると、心の中では受けいれようと思っていても、一応は拒絶するのが普通なんです。時には、二度も三度も拒絶することがあるものです。
女として、プライドの高い女性ほどいい女と見る傾向があるというのは、私自身、何度も辛酸を舐めている上に快感も味わっているから、こちらも荷風と同じように支持する。
この二つをうまく混合させて、生まれたファム・ファタールは、夏目漱石の著作に登場している。
「虞美人草」の藤尾である。
未読の方は以下のリンク先で読んでみるがよい、あまりにもいい女すぎて寒気を覚えるであろう。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/761_14485.html
こういう風に。
精神の上での“生き方”の講義は、説法とおなじく、子供たちの心に種となって沈んでくれればいいと思う。
最後に。私が女の“深さ”を“かたち”として見てしまったのは、ロセッティの「受胎告知」である。
ロセッティ描く処女マリアの表情は、驚きでこわばっているのではない・・・
一瞬にして少女(処女)であることを否定されてしまった、絶望と怒りによるこわばりなのだと・・・
ファム・ファタールはそういう深淵の遙か底から浮かび上がってくるのだ。
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