望月三起也先生の名作「ワイルド7」の続編である「新ワイルド7」の最終章として、以前からサイドストーリーを連載している。
最新作は以下のリンクをご参照あれ。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=725565613&owner_id=1640816
この中で、ワイルド7を全く知らない読者さんたちが、私の考えるオリジナルのテロリストの動向に非常に興味を抱いて下さっている。
「ピースメーカー(Peacemaker)」という組織で、その主たるメンバーが過去の世界の首脳という設定だ。
ストーリー上、全員、百歳に近い老人という設定にもしてあるため、モデルにした政治家は、我が国なら「妖怪」と呼ばれた岸信介と、豪華な顔ぶれにしてある。
一体なにゆえにこういうご老体に出番を願ったのかというと、幼少時に聞いた、復員兵だった檀家の老人が語った一言に起因している。
「平和よりも戦争の方がましだ、溺れるよりも泳ぎ続けていた方がいいからな」
その老人は、南方戦線で物資輸送を担当していたが、魚雷の直撃を食らった際に、左足を股の付け根から失っている。
それで、傷痍軍人として、真っ白な着物を着て、路地に立って人々のお恵みを得て食いつないできた時期があったのだが、戦争よりもこちらの方がずっと悲惨だったとよくこぼしていた。
私自身、あちらこちらの路地で、傷痍軍人を見かけたことがある。
同行していた祖父やオヤジは出会う度に、聖徳太子の一万円札を手渡して一礼するのを常としていたが、たいていの通行人は視線すら合わせずに、彼らが元々存在していなかったかのような顔をしていた。
幼少時の私は、そんな通行人たちに暗い怒りを覚えた。
同時に、平和の虚無さをおぼろげながら感じ取り、これからの虚ろな時代を生きなければならないという恐怖感も感じ取って、暗然たる気持ちになった。
次に、「戦争の素晴らしさ(・・・)」を知ったのは、少年ジャンプで短期連載されていたアクション漫画「マッド・ドッグ」(原作/武論尊、作画/鷹沢圭)で、ターゲットとなった少佐が語るセリフであった。
「戦争はゲームだ・・・それも生命を賭けた。敵と向かい合った時の殺らねば殺られるという、あのヒリつくような生命感・・・個と個の戦い・・・双方の全能力の優劣が生死を決める。一度それを知ったらもう他のゲームはできん。その世界でしか生きられないんだ」
そう、「その世界でしか生きられない」。
戦場を渡り歩いたルポライターとしての開高健も、短編集「歩く影たち」の中で、ベトナムの前線に戻りたがる米兵の焦燥感を描いているし、映画「地獄の黙示録」のマーティン・シーン演じるウィラードもまた平和を拒絶した軍人である。
色々な戦争映画、戦争文学、戦争漫画を飲み込んできて、私はあることに気がついた。
故郷は遠くにありて想うもの・・・
平和も遠くにありて想うものだということに。
実際に平和を手にして、人間は果たして、明確な人間性を保っていられるのだろうか?
その答えは今現在、ネット社会という戦場に生きている我々にとっては、分かりすぎるくらい、分かりすぎているだろう。
それで、かつて、ヨーロッパの陰湿な情報戦争にさらされて、新天地を求めてアメリカ大陸に渡り、アメリカ人として、平和と、より単純明快な人間性を得るために、新しく開発した銃器に習って、オリジナルのテロ組織を「ピースメーカー」と名付けて、銃弾の持つ意味について考えていこうと設定した次第である。
これが、コルト社のシングルアクションリボルバー、ピースメーカー。
そういうわけで、かつて政治という戦場で戦い抜いたプロフェッショナルのご老体をテロリストとして登場させ、私なりに、ヒリつくような生命感がもたらす、明確な人間性の是非について書き表している最中である。
もっとくだけて言ってしまえば。
分かり切っていることを、ああでもない、こうでもないと、法律を自分の都合のいいようにねじ曲げる口の達者な輩は、平和の最大の敵なのだ。
そして、一発で黙らせるのは、銃弾。
これは実はアメリカ式ではなく、いにしえの我が国にもあったやり方である。
日本刀の一振りがそれだ。
そのへんをうまくエンターテイメントとして描いた先駆者は、もちろん、望月三起也先生だ。
だから、私もヘンに硬くならないよう、あくまでも娯楽に徹しようと心がけている。
「暴力は最後の理性」。
誰の言葉だったか、失念してしまったけれども、至言だと思っている。
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