私はドがつくほどのスケベなのだが、対象は女性に限らず、「女性のような美男」にも及ぶ。
これをバイだとか、両刀使いだとか枠付けするのは結構だが、私はただ、「強烈な磁力を感じるものに対して、それ自体が発する引力に逆らわず、飛びかかる」だけなのである。
前回の女形少年の話で、私がホモもイケるのかと今さらのように驚いた方々があまりにも多かったので、ここでハッキリ申し上げた。
で。
今回は、私がなぜ同性愛に対して、偏見を持たず、許容範囲が広くなったのかを縦線に、今まで私が影響を受けた同性愛ものの紹介を横線に、犬神流同性愛考を軽く展開させてみよう。
まず。
三島由紀夫は自伝的私小説「仮面の告白」にて、聖セバスチァンの肖像に興奮して自涜に耽ったと告白しているが、私が生まれて初めて、作品に興奮して自涜に耽ったのは、活字が並ぶ小説で、アーサー・マッケンの「怪奇クラブ」(創元推理文庫)に収録されている「白い粉薬のはなし」であった。
変な白い粉薬を飲んだ青年の五体が溶けてしまう内容なのだが、その粉薬が偶然出来上がってしまった「ヴィナム・サバッティ」、つまり「サバトの酒」で、魔女たちが宴で飲み交わす魔法の酒だったというオチよりも、それを飲んでしばらくすると、酩酊状態の中でゾクゾクするような美女とセックスするのだが、実は、ドロドロに溶けた自分自身の中の「もう一人の自分自身」とセックスするのだというシチュエーションに何ともいえないエロティックさを感じたのである。
当時、小学五年生の子供であったが、私自身の中に「ゾクゾクするような美女」を夢見て、初めてのオナニーを覚えるという、これ以上は望めないほどの最高の出発点だった。
次に、心に留まった作品は、石ノ森章太郎の「サイボーグ009」の「雪のカーニバル編」(秋田文庫第二巻に収録)。
島村ジョーとアルベルト・ハインリヒの二人が、魔女が出るという(恐らくハインリヒの出身国ドイツの)雪祭りの行われる村に立ち寄り、雪の中に建つ城に住む老父と美しい姉妹に出会う話で、姉のリンダと妹のレナ(画像)の驚くべき秘密が明らかになるというクライマックスにはなかなか興奮させられた。
未読の読者にオチをバラすのは申し訳ないのだが、生まれた時から身体が弱かったレナのために、老父は孤児のリンダを引き取って、少しずつ、リンダの血肉、内臓、骨をレナに移植し、リンダをサイボーグに改造していたのだった。
そのために、サイボーグになったリンダは自分をおさえきれなくなって、魔女となって村人を殺して、それをレナのせいにしていた。
最期に、雪崩に城もろとも呑み込まれる中で、レナを、自分の身体を愛していたと告白するリンダに、私はまさに、レズビアンを突き抜けた同性愛の形を見た。
リンダとレナの「姉妹」は、閉ざされた城の中で、それぞれが男役、女役に徹して、深い愛で結ばれていた。
しかし、男役のリンダは、突如現れたジョーに心を動かされるレナに嫉妬心を燃やす。
そこで自分も「女」としてハインリヒの部屋に忍んでいくのだが、あっさり追い払われてしまって泣き喚く。
このへんの「情念」の崩壊劇が、さながら古代ギリシャ、もしくは我が国の能、歌舞伎に見られるような古典的(普遍的)な悲劇のようで、当時読んだ小学生の私は、性を超えた男女関係の究極形を学んだ感じがして、深い感銘を受けたものだ。
そうして、ますます、陰陽という二元性にとらわれることがなくなった私は、クラスメイトと一緒に女の子のパンツを見て歓声をあげはしたが、心はすでに遠く、雲の彼方の官能を追い求めていた。
�△愨海�。
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