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2017年01月28日09:02

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ひとりになるとは、自分と向き合うことではない。

■ひとりで過ごす「つまらなさ」こそ、豊かさの証し 「誘いを断る勇気」を持って
(ウートピ - 01月27日 20:52)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=184&from=diary&id=4405309

この手の話題が出ると、条件反射のように、「自分と向き合う」という言葉が出てきますが、それは違うと思います。

つまらない → だから、読書や音楽などを求める
(人と一緒ではないから、おのずと、クオリティが高くなる。)

ということを、筆者は言いたいのではないでしょうか。。

自分と向き合うというのは、
「オレは、この会社に向いていないかもしれない。」
「最近、toeicの勉強を怠けているな。」
などという、反省や計画でしょうか。
それとも、
「オレは気が弱いな。」
「オレもなかなかよくやっているなあ」
という自己評価でしょうか。

これらの事だとしたら、余りにも、余りにも不毛です。
そういうことは考えますし、時には必要ですが、最小限度にしないと。
私の体験的な思いですが、一般化できると思います。

何かを熱中してやっている瞬間にしか、実りはないからです。

熱中して自分を無化すること。
正確にいうと、主客の無意味な分裂を起こさないこと。
そのきっかけが、退屈です。

沢庵は、剣術の心得について、こう述べています。

…心を執へつめて置いては労れ、猫のやうにて身が働かれねば、物に心が止まらず、染まぬやうに能く使ひこなして、捨て置いて何所へなりとも追ひ放せと云ふ義なり。蓮の泥に染まぬが如くなれ。泥にありても苦しからず。よく磨きたる水晶の玉は、 泥の内に入っても染まぬやうに心をなして、行き度き所にやれ。心を引きつめては不自由なるぞ。心を引きしめて果つるなり。稽古の時は、孟子は謂ふ求放心(注9)と申す心持能く候。至極の時は、邵康節が心要放と申す、邵康節が心をば放さんことを要せよと云ひたると一つにて、放心を求めよ、引きとどめて一所に置くなと申す義にて候。
沢庵 『不動智神妙録』

仮に意味を取ると

…心を意識しきったら疲れてしまい、猫のように身が働かないので、物事に心が留まったり染まったりしないように使いこなして、放っておいてどこへでも追放せという意味だ。蓮が泥に染まらぬように心を作って、行きたいところにやれ。心を引き詰めては不自由だぞ。心を引き締めて死んでしまう。稽古の時には孟子がいった心を放せという心境がよく、いよいよの時は、邵康節が必要放と言った。それは、邵康節の「心を放すことを大切にせよ」という発言と意味は同じであり、放心を求めなさい、引きとどめて一つの場所に置くなという意味だ。

全くその通りだと思います。
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