最近、ココたち犬神チルドレンの少女のヌードを撮っているのだが、ご両親の了解を得られたのは、私の少女崇拝の源が性的な欲求から始まるものではないことを理解してもらえたからであり、実際、私にとって美少女は機能的、テクニカルなイコンである(美少年もまたしかり)。
おっぱいでもケツでもおまんこでもなく、機能的な言語である、乳房、尻(もしくは臀部)、女陰(もしくは陰門)と表記することで、少女は性的な好奇心、人間本来の悦びであるセクシャルなすべてから解放されて、何か別のもの、言わば人類がいまだ到達したことのない未知の官能へのキエチーフになる。
それを絵画でやってのけたのは、実はエゴン・シーレなのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%AC
中学生の頃、エゴン・シーレの絵を観る機会があり、同行していたオヤジは「うへっ、ガイコツみてえだな」と評していたが、私はガイコツのような死臭を放つ肉体の荒涼ぶりに、全く別のもののエロスを感じてしまい、勃起する心をパンフレットで扇ぎながら歩いた。
いまだにシーレを猥褻扱いする識者がいるようだが、当然だろう。何と言っていいか分からぬ、感情を逆撫でするような危険さは、猥褻とでも言わない限り、その人を納得させられないからだ。
乳房も女陰もさらけ出した後は、何をさらけ出すべきか?決まっている、心だ。シーレの絵はどれも死者の心に満ちあふれている。生者をモデルにしながら(自画像もしかり)、果てた後の心情を描き切っているのだ。
初めて女性のヌードを描いたのは、高校生になってからだったが、羞恥心に悶えるクラスメイトや先生がモデルでは、初々しいものしか描けなかった(それはそれで満足しているけれども)。
もっとこう・・・羞恥心に悶えつつも、常に攻撃的で挑発的な女性にモデルになってもらいたかった。
そのはざまにあるものこそが、少女特有のシンボリックなものだからであり、私はそれを永遠に追い求める。
それでようやく、私が精神的に仕込んだ犬神チルドレンの少女たちをモデルに、納得のいくものが撮れて、にっこり笑っているところである。
ココたちは少女らしく、以下の写真のように撮ってもらいたいとわざわざプリントアウトしてきて希望してきたが(報酬代わりにこういう感じでも撮ってあげたけれど)、
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彼女たちの透き通るような裸身は、私のカメラのなかで生々しさを失い、メタリックな人工物になり果ててしまっている。
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