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2009年02月01日19:00

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霊は信じないけれども心は信じる。

今までに一番聞かれたことは何ですかと言われたら、やっぱり、「幽霊を見たことがあると言ってるのに、どうして霊の存在を信じないんですか?」の問いだと答えるだろう。

このへんのスタンスが、どうも、あちこちで出会うコチコチの心霊あたまには理解出来ないらしく、澁澤龍彦先生が著書のなかで紹介していらした「あたしは幽霊は怖いけれども信じません」という婦人の考え方も、到底理解出来ないと突き放していた。

確かに私は幽霊を見たことがある。
母方の大叔母の幽霊で、生前私を溺愛していた縁で、死んでからも私の寝ているところに這ってきたのだった。
それで一緒に寝ていた従姉は、遺体を安置しているはなれに行って、ボンナイフで大叔母の額に×印を刻んだ。
それをまじまじと見て以来、私のところに大叔母は現れなくなった・・・

この時すでに、私は幽霊とはほんとうに気のせい、心のなせる業なのだと悟っていた。
祖父も父もおなじく、幽霊を見たことがあると言っていたが、本気でその存在を信じる気配は微塵も見せなかった。
父は言ったものだ、「時々気を緩めるとよ、見えちまうんだから、あんまりオバケの本を読むんじゃねえぞ」。
そうなのだ、オバケのことばっかり思い詰めていると、心が勝手にオバケの像を見せてしまうわけである。

幽霊の正体見たり、枯れ尾花。

枯れ尾花を幽霊と見てしまうのは、ほんとうに気のせいなのだ。
その気のせいでしかないものに、何と、人々はどれだけ翻弄されることか・・・!!

私は小学生の時に、オカルトに熱狂的にハマッたクラスメイトにカッターで切りつけられたことがある。
というのは。
当時テレビでドキュメンタリー映画「超常現象の世界」をやっていて、翌日そのクラスメイトが大興奮して、一生懸命空中浮揚の練習をしていたのを、私が笑い飛ばしたからだ。

こんなのを見て、やれ呪術だの、悪魔祓いだの、心霊手術だのと本気になる方がどうかしているのだが、彼女の狂信ぶりは尋常ではなかった。
結局、十四針も縫う切り傷を負ったのだが、私は翌日、一人菓子折りを持って彼女の家へ謝罪しに行った。
彼女は会いたがらなかったが、彼女の父親は複雑な表情を浮かべ、母親はこちらが恐縮してしまうほどに土下座しながら何度も謝り、しまいには「何であなたが謝りにくるんですか!!」と激高していた。
そこで私は言った。
「彼女の心を傷つけてしまったからです」
唾棄すべき狂信ぶりであっても。
カッターで切りつけるくらいに、彼女は信じていたかったのであり、みんなにも同調を求めたかった。
そのへんに人間の弱さ、人間らしさを感じて、不用意に傷つける笑い方をした自分自身を恥じたのである。
菓子折りは受けとってもらえなかったが、それ以来、私は霊を信じるという人を笑ったりすることをしなくなった。

ただ、同調を必要以上に求めてくる場合は、しっかり笑い飛ばすことにしている。

そういう「間合い」を処世術として身につけると、その時を狙ったかのように母方の身内にいる祈祷師だの、霊媒だのとあやしげなおばさんたちが私にすり寄ってきたのだが、この縁も私の「間合い」が安心出来るがゆえに自然に生まれたものだと思っている。

彼女たちは気休めなのだ。
だから、いわくつきの物件とかがあると、気休めとして彼女たちのなかで手の空いているものを呼んで霊視してもらったり、祓ってもらったりしている。
寺社の儀式と同じ感覚で、祝詞やお経を読むものと全く変わりない日常的な世界だ。

そして、今日も、そんな私をガチガチの心霊主義者と勘違いする人がニコニコ愛想笑いをして、シャレにならないくらいあやしげなサークルへ勧誘しようと近寄ってきた。

そういう不埒な輩は。

かつて、私をカッターで切りつけた彼女のように純粋な心で、自分が口にする世界を一片たりとも信じてはいまい。

だから、私は遠慮なく、残忍な嘲弄の響きも高らかに笑い飛ばすのだ。

そしてさらに。

隠秘学としてのオカルトの真髄とは、案外、心をいかに強靱なものにするかにあるのかもしれない。
他人の言うことにいちいち揺れ動く心では、世の中うまくやっていけるわけがないのである。

私は幽霊を見たことがあります。
でも、ほんとうにいるとは思いません。
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