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実に痛ましい事件である。
茨城の事件といい、こういう無差別殺人で常に思うのは、無意味に生命を奪われた方をいかにして「成仏」させるかということだ。
当寺はまだこういうケースと巡り会っていないが、万が一の場合を考えて、あらゆるところから話を聞いたり、自分でじっくり時間をかけて熟考したりして、それなりの対策は準備している。
結論からいって。
成仏させるのは無理である。
それは当然で、殺された本人も、遺族も、その死に納得がゆかねば、どんなありがたい文句を並べ立てても、心を晴らすのは虚しいことである。
だから、私は、アンブローズ・ビアスに習って、「死は常に日常の影に潜みたり」の言葉通り、人は天命によって生死を左右されるのではなく、死ぬのは簡単で、生きるのは難しいという風に出来ているという話から始めることにしている。
事実、死ぬことは現在、戦争中よりもずっと身近なものになってきている。
しかも、最悪なのは、真摯なものであった戦争中のそれとは違って、死ぬことの意味が、真摯とはほど遠いものに変質しているということである。
現実逃避として、簡単に自らの生命を絶ち、誰かの生命を奪う・・・
加害者が死刑になったら、その死にのぞんで、仏法にのっとった訓戒を下すことが出来るのだが、被害者に対しては一体何が出来るというのか?
それでも。
お寺としては、檀家の気持ちを晴らすのが最大にして最優先の使命である以上、何としてでも「何とかしてあげなければいけない」。
当然、やっつけ仕事としてお経を読んだりして、納骨式まで滞りなく無事に終わらせるだけでは駄目なのだ。
そうすることで「逃げ」をうつお寺が多いのには、個人的に舌打ちしてしまうけれども、坊主であることを自覚せず、努力を怠る者のあまりの多さには、個人的に怒りよりも絶望を感じてしまう。
私は次の言葉を作った。
「呑濁(どんだく)」。
即ち、濁流に呑まれるということで、日常に潜む死という濁流に突如呑み込まれて生命を失うという意味合いである。
これは長野で起きた鉄砲水で突然死を迎えてしまった家族に、菩提寺が天災もまたさだめ、さだめを受け入れて成仏せよという意味のことを言ったということに、反発心を抱いたことから始まった。
後に、宗派が違うとはいえ、個人的にそのお寺を訪問して、天災が定めなら、人災も定めなのですかという問いをぶつけたら、人が災いを起こさぬように努力しなければならないと見当違いのことを繰り返すばかりで、らちがあかぬまま追い出されてしまった。
大体。
さだめに従って生きるといういう考え方は、個人的にはとても容認出来ない。
人間というものは、自分の意志、生命力で運命を切り開くものだ。
それだけの力があるゆえに。
他人の運命を支配してしまうのも可能なのだ。
従って。
その人の心の闇から流れ出る濁流を止める努力をするのは、現実的ではない。
いかにして、呑まれないかを考える方がずっと現実的である。
そのためには、濁流そのものを見極めなければならない。
流れ方を知っていれば助かる可能性が高くなるからだ。
即ち。
闇をもっと奥深く知り尽くす必要があるのだ。
「呑濁」とは、自らの濁流を呑むという意味合いもあるわけである。
・・・・・・
突然の死を受け入れるのは、誠に心苦しきものでありますが・・・と始めるよりも、人間の心の闇の恐ろしさと、その克服の仕方を語るところから始めた方が、亡くなった本人と遺族の方々の心を少しでも晴らす助けになると、私は思っている。
それにしても、ほんとうに、イヤな世の中である。
それでも、私たちはこの世の中を生きなければならない。
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