我ながら、ここまで緒形さんの死のショックが長引くというのは、正直、驚いている。
どこのチャンネルを回しても緒形さんの顔が出て、涙ぐんでしまうので、とうとうテレビを消して、以前、緒形さんの書の個展へ行った時のパンフレットを眺めながら、緒形さんが三島由紀夫に惚れ込んだ理由を考えてみた。
すると、どうしたわけか、電撃的に、アンドレ・マルローの言葉が浮かんできた・・・
「自己を表現するために創造するのではなく、創造するために自己を表現するのである」。
これを三島由紀夫に当てはめてみるがよい。
まさしく彼の生き様そのものではなかったか。古都に横たわる古きよき日本の美と、東京に横たわる新しく複雑な日本の美・・・当時の、高度成長期の若者たちにあらわれていた二面性を、その時代に同じく生きる者として受け入れて、自らの視点で日本人の個性を展開させたのだから。
三島の一挙一動が、当時の日本人そのものだったのだ。
恐らく、緒形さんはそこに惹かれたのだと思う。役者として、同じ芸術家として、自らの個性を広げて、それを普遍的な作品にするというのは大いに共鳴するところがあっただろう。
従って、映画「MISHIMA」で彼がほんとうに激しく戦ったのは、監督でもなく、三島でもなく、緒形拳という役者、自分自身だったのだ。
自分自身を作品にするのではなく、自分の目を通しての役者であるために・・・
だから、私たちは、緒形さんがどんな役をやるかというよりも、どんな役が緒形さんらしくなるかの方に興味を抱いていたはずなのである。
それがほんとうの役者冥利ということであり、そこに人間としての魅力の大きさを感じさせたのだろうと・・・
今。
私たちもやはり、高度成長期から一歩進んだだけの、古い日本と新しい日本のはざまに生きている。
昭和に比べて、平成は確かに進歩しただろうが、昔に比べて殺伐としているのは、自分のことしか考えられなくなってしまっているからだ。それは役者も含めた芸術の面にもいえることで、すべての作品は自己表現にありと言い切ってしまう人たちがほとんどである。
それは、例えば、美術館の入り口の前に立っただけで全部観て回ったと言うようなもので、底が浅いなんてものじゃない。
なぜ、もっと自分の目を使わないのか?
なぜ、そんなに目を閉じようとするのか?
三島は幼い頃から自分の目で様々な事柄を貪欲に吸収してきた。その果てに、彼自身が見てきたものの積み重ねが、三島由紀夫そのものとなったのである。
緒形さんも若い頃から五感を使って色々なものを吸収してきた。その果てに、緒形拳という名優が出来上がった。
マルローの言う、創造するために自己を表現するという、ほんとうの意味はそこにあるのだ。
私は二人に限りない敬愛の念を抱きながら、これからの日本を、世界を、そして自分自身を、私自身の目で冷徹に眺めて、これからも言葉を紡いでいくだろう。
よし、何とか立ち直った!!
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