ヒトなどの祖先はナメクジウオ
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私はいわゆる進化論を肯定しません。
ヒトがサルから進化したとか、子供の頃にさんざん聞かされたあまり、かえって疑っちゃったからなんですよね。
そうやって信じ込ませようとするのは何か魂胆でもあるのか?ってね。
そんな私を大人たちは「ひねくれ者」呼ばわりしましたが、自分で確かめもしないものを鵜呑みにしている大人たちよりはずっとましだと思っています。
ではヒトはどこから来たのか?
それについて、私は井尻正二・伊東章夫の手による科学まんが「ぼくには毛もあるヘソもある」(新日本出版社)をそれこそボロボロになるまで読み倒し、上野の国立科学博物館に何度も足を運び、高校までの生物を楽しく学びながら考え詰めました。
その結果。
科学で分かるのは、輪郭だけに過ぎないと悟りました。
例えば、カモノハシ。脊椎動物にして、ほ乳類。それなのに卵を産む。現在では研究が進んでいくらか分かってきましたが、私が子供の頃は、上野の博物館の先生も(子供だった私のカモノハシは何で卵を産むんですかという質問に)ちゃんと説明出来ませんでした。
それで。あえて。
ファンタジーの世界の、バカバカしいながらも結構な想像力の分野にヒントを求めたんですよ。
中国の奇書「山海経」での様々な異形の人種を始め、永井豪の「魔王ダンテ」(人間は宇宙からの侵略者で、悪魔は人間の手から地球を取り戻すために闘い続けているという設定)、楳図かずおの「14歳」(人間はティラノサウルスから進化したという設定)などの様々なマンガ、小説、映画を呑み込んだ結果。
アメリカの聖書至上主義の輩が頭から信じ込んでいる、ヒトは神が造ったというお題目はあながち間違っていないとゆとりたっぷりに受け入れられるようになりました。
想像力こそがヒトの「素」であり、「種」だと悟ったからです。
私は何よりも、人間を形成したのは「言葉」そのものと考えます。
種にしか分からない叫び声、鳴き声が、他の種にも分かるものになっていった時点で「文化」というものが生まれ、色々なものが細かく言葉で表現されていくと、生命力は想像力にダイレクトに変換出来る・・・
そういう意味で。
事実のみを追求するという科学でさえも、言葉に出来ないものが横たわっていると急に無力化してしまうというものは、人間がまだヒトについてひとつの角度からしか見ていないことを証明しています。
私は子供の頃から、科学で説明出来ないということよりも、言葉で言い表せないということが、何より我慢出来なかった。
それは、言い換えれば、私なりにヒトであることの「素」、「種」からの視点にさかのぼろうとすることであり、作家とは、研究を続ける生物学者と同じように、いや、それ以上にヒトそのものと闘い続けている存在なのだと考えます。
ナメクジウオ・・・科学の分野で突き詰めれば突き詰めるほど、フレドリック・ブラウンが喜びそうなSF小説のレベルになっていくのは、痛快な皮肉を感じませんか。
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