以下は、AIの添削である。
「アマチュア」という言葉の居心地の悪さ
――《讃歌》オケ合わせを通して
メンデルスゾー《讃歌》(2月8日、金沢市文化ホール)のオーケストラ合わせがあった。オーケストラはアマチュアの大編成、合唱は80人ほど。いずれも「アマチュア」である。
本番指揮の辻先生の指導は今回で3回目。指揮は明確で、細部まで具体的だ。指揮を見ていれば、どんな音楽を求めているのかは十分すぎるほど伝わってくる。問題は、見ていない人がいることだ。
楽譜を下に構え、オケの音に身を預けて歌う。結果として声は前に飛ばず、合唱としての輪郭は曖昧になる。「下を向いて歌うと声が飛ばない」という指摘は、今回に限った話ではない。過去2回の練習でも繰り返し言われてきた。それでも改善しない。
ここで便利に使われるのが、「アマチュアだから」という言葉だ。
仕事が忙しい。練習回数が限られている。年齢差も経験差もある。確かにそれらは事実だ。しかし、それらはできない理由であって、やらなくていい理由ではない。
練習録音を聴くと、ソプラノ、アルト、テナー、バスの音量バランスは3:1:3:3。人数比から考えれば明らかに女声が埋もれている。声が弱いのではない。出していないのだ。いや、出そうとしていない、と言った方が正確かもしれない。
「音符を正確に歌うことは、音楽ではない」この言葉は、アマチュアにとって最も耳が痛い指摘だろう。楽譜を守ること、間違えないこと、注意されないこと――それらは安全だ。しかし安全な場所にとどまる限り、音楽は前に進まない。
ドイツ語の発音が完全である必要はない。そもそも聴く側も分からない。ならばまず音を届けること。母音でもいいから、ホールの向こう側まで飛ばすこと。それが合唱であり、音楽だ。
本番まであと2週間。練習回数は限られている。だが、限られているからこそ、指揮者の示す方向を「受け取る姿勢」が問われる。
アマチュアとは、下手な人のことではない。時間も報酬もない中で、それでも音楽をやろうとする人のことだ。
だがその言葉を、努力を放棄する免罪符にしてしまった瞬間、合唱はただの「人数の集合体」になる。今回のオケ合わせは、その境界線がどこにあるのかを、はっきり突きつけてきた。
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