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2018年07月24日13:37

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コラム 「箱庭世界への想像旅行」犬神博士(鈴木清涜)

箱庭の先に視えるもの。

私の箱庭は生まれて初めて視た光景に通じる。初めて聴力検査をした時、防音室のなかに置かれていたガラス張りのおもちゃ箱。耳鼻科の院長が私のような幼児を落ち着かせて集中させるために作ったもので、新幹線のプラレール、あちこちに配置された恐竜や怪獣、ヒーローなどの塩ビ人形、ゴロゴロした積み木。耳が悪く本ばかり読んでいたとはいえ、クチをきかないのは精神的に欠陥があると勘違いした親戚に連れていかれて精神病院にて初めて診てもらった時、やはり私のような幼児を落ち着かせるために置かれていた情景模型。ボタンを押すと山のなかのトンネルを蒸気機関車が走ってくる。初めてレンチキュラー(lenticular)絵本を読んだ時の、レンチキュラーレンズによって向こうの山がぼやけ、中間の藪が視え隠れし、手前の猿がハッキリ視えるという立体感。これらの原初光景が私の箱庭の素材で、水槽のレイアウトや盆栽いじり、食玩のコレクションの配置、夜店や雑貨屋で買った陶器製の家や人形を既成のドールハウスに無理やりねじ込んでシュールな世
界を作り上げるという手慰みに大きく浸透している。追憶ではなく、憧憬という宇宙観。そこから世界は果てしなく広がっているのではなく、常に凝縮、濃縮されているという考え方にスライドしていくと、箱庭はさらに箱庭としての機能を発揮し、私の目を醒ましてくれる。夢のなかで視るいつもの光景はなぜあんなに歪むのだろうか。遠くにあると思っていた場所がなぜ家のすぐ裏に出現するのだろうか。すべて私のなかで再配置され続けるという、いわばオートマティック箱庭。

世界は私の内部風景のままにレイアウトされる。

いにしえの王が自分の領地を巨大な象の形をしたガラスで覆うことを計画したという逸話を読んでも、驚くよりも大きく賛同出来てしまうのは、そういうことなのだ。近所の小さい男の子が庭先のビニールプールのなかで、平成仮面ライダーの人形と浮き輪を戦わせているのを見ても、笑うよりも大きく感情移入出来てしまうのも、やはりそういうことなのである。
頭のなかに思い描くだけでなく、無意識に手が動いて自分の箱庭を形成していくのは誰でもやっている。部屋のなかに座って意識してレイアウトしたもの以外を視るがいい、ティッシュ箱、鉛筆一本の位置でさえ自分の視ているものの構図に従ってそこに存在していることに気付くであろう。モチーフとしての箱庭を作ったり描いたりするのはカンタンだ。しかしキエチーフとしての箱庭に気付くのは容易なことではない。それだからこそ興味深い視覚を得られることに期待出来る。人間は常に視たことがないものを視たがるのだから。
そういう意味でスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」のクライマックスは、人類史上最も挑戦的、かつ挑発的な試みであった。一体誰があそこまで視ることが出来るだろうか。いや、視たとしても、それが何であったのかを感じる人はどれほどいるのだろうか。まさに究極の箱庭といってもいいのだが、映画自体はすでに1968年の制作である。我々はその先を視なければならない。先を視なければならない、その過程で発表された楳図かずおの「14歳」。1995年に連載終了しているのですでに古典に入ろうとしているが、人々はいまだにどう読み解いたらいいのか判断しかねている。あれもまた箱庭にあてはめればそんなに難しくはない。ティラノサウルスを模った宇宙船のなかに展開される自然、ムシのなかの宇宙、そのムシが生きるチキン・ジョージの世界。連続する箱庭の世界と視れば、また違った読み解き方が出来るはずである。
私はこれからの箱庭は多重の層を持つだろうと予言する。個が作り出すひとつずつのおもちゃ箱、情景模型、絵本の世界は終わりを告げ、一の段、二の段、三の段という風に重箱のような世界になっていくだろう。「エクソシスト」に例えれば、リーガンという個ではなく、内部に潜むレギオンがこれからの箱庭を作っていくのだ。
個の箱庭は多くの箱庭と通じて、無限の変化を遂げていく。その移り変わりを見届けるのが人類の存在価値といってもいい。    
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