もしもあなたがまっとうな人を知りたいと欲するなら、彼が他人のなかに一番憎む悪徳がなんであるかを研究するとよい。
ジャン=ポール・サルトル「聖ジュネ」
私が彼に出会ったのは、小学生の時だったと記憶している。
彼は黒縁の分厚い度の入った眼鏡をかけ、髪をていねいに七三に分け、詰め襟をきちっとはめた学生服を着て、ボロボロの色あせた体育館の前に座っていた。
私は近寄り、こんにちは、と挨拶した。
彼の眼鏡の奥から尖った光が消え、私が隣に座ることを許してくれた。
「お兄さんはどうして一人で座ってるの?」と私。
「一人でいるのが好きなんだ」と彼。
「ひとりぼっちのままじゃ、さみしくならない?」
「さみしくたってどうしようもないじゃないか、君こそ一人で何だってこんなところまで入り込んでるんだ?」
「家がすくそこなんだ。ほら、あの金網の穴。あそこから入って、時々ここで遊んでるんだよ」
「一人で?一人で遊んでるのかい?」
「一人だよ、でも、ひとりぼっちじゃない」
「なんだって?」
「お兄さんは遊び方を知らないんだね、一人でもさみしくならないやり方を教えてあげるよ」
その時の私は、ジャン=ポール・サルトルがジャン・ジュネについて考察した「聖ジュネ」を読んだばかりだった。年相応の本ではなかったので、全体的に理解したわけではなかったが、本が放つ強烈な“何か”は、すっかり私を虜にし、犠牲者を求める吸血鬼のように、家のすぐ前の高校の校庭、昼休みのあいだはがらんと静まりかえっている体育館前をさまよっていたわけだ。
当時の私は本だけが友達だった。
大人たちは耳が悪いからコミュニケーション能力に欠けてる、それで本を読むしかないのだと片付けていたが、それならば私と同じ聾者ももっと本を読んでいるべきだろう。
実際、私が小学校の時にはポオやラヴクラフト、ホーソーン、マッケンを読破していた。好みが極端に偏っていたため、乱歩、横溝を読んで、サドへと流れ込み、その流れでサルトル描くジュネと出会ったのである。
斧がわたしの首を切るずっと前に、わたしのなかで死んだ朗らかな子供・・・
私は妖怪のように彼をからかい、悪魔のように彼を誘惑し、そして天使のように彼を慈しんだ。子供は未熟なふりをすれば簡単に少年を籠絡出来る。
要するに、私は彼をおもちゃにしたのだ。
髪型が七三分けのお坊ちゃんが“何か”に目覚めるのを見たかった。
私はまずお互いに上半身裸になることを提案した。
「なぜ脱ぐ?」と彼。
「口で言うよりこうした方が早いからさ」と私。
彼は恥ずかしそうに詰め襟の学生服を脱ぎ、母親が愛情たっぷりにアイロンをかけたであろう、糊のきいた白シャツをもたもたしながら脱いでいった。
日焼けしていない、白い肌だった。
それを見届けてから、私は素早くセーターを脱ぎ捨て、日焼けした肌を誇示した。
「お兄さんは逃げるんだ、十数えたら追いかけるから、うさぎのように逃げ回るんだよ」
「何でこんなこと・・・」
「お兄さんが僕を追いかけるよりあやしくないからだよ」
それから、多分、校舎のどこかで、誰かが、肌の浅黒い子供に追いかけられて、無様にすっ転ぶ生徒を見たのだろう・・・
次の日、それからずっと、彼に会うことは二度となかった。
でも、私は羊の血肉を貪り食ったおおかみのように、心地よい満腹感に浸っていた。
そして、私の心のうちに染み込みつつある“何か”は、想像以上に、“何か”以上のものであることに気づいた。
そんな子供の思い出を語って聞かせた、愛する少年は、ひどく目を輝かせた。
もしわれわれがこの人間とその世界とを理解しようと欲するならば、彼がわれわれに与える彼自身の、また彼の世界の、神話的表現を通して、根源的事件を注意深く再建する以外に方法はない。この根源的事件にたえず彼は立ちもどり、秘密の式典のなかにそれを再現するのである。方法は課せられている。神話を分析しそれによって事実に真の意味を与え、事実を再建することである。
「一人でもさみしくならない遊びとは即ち、誰かを追いかけることなんですね!!」
「その通り。世界がまだ混沌としていた頃、神々ですら追いかけっこしてたんだからね。君だって誰かを発作的に、意味もなく、突然追いかけてみたことがあるだろう。からかいのつもりでね・・・その時、君はもう君自身じゃないんだ。何か他の、気味の悪い別の君自身なんだよ。そういう君自身を自覚することこそが、ほんとうのひとり遊びなのさ」
子供の頃、私はそういうひとり遊びに夢中になっていた。
グラウンドをたたたと駆けていく半裸の少年に向かって突進する私自身に興奮していた。奇声、涎、歯のむき出し・・・すべてに興奮する瞬間が最高だった。
それを反転してみて。
私自身に追いかけられる少年に自分を重ね合わせてみて、少年が感じたであろう、恐怖と衝撃を想像して悦に入る・・・
これまた最高だった。
どこか遠くで、誰にも知られない花がひっそりと咲くように、子供の頃の私はうつむいてにっこり笑った。
その咲顔の裏側に、少年の恐怖の表情、彼自身が自分を地上に繋ぎ止めるために、口を大きく開けて泣き出す瞬間の表情が濃くこびりついていた。
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