この「読書って本当に必要ですか」と質問している人は、どこかに万能の正解があると思っている人なのでしょう。
最初から、決定的におかしいです。
そんなものは、人によりけり。
マツコさんが言っている通り、必要があるものなど、食い物と水以外にこの世にはないから。
「タンパク質は、本当に必要ですか?」なら、正解は出ますが、
「自家用車って本当に持った方がいいですか?」には、正解は、ありえません。
また、ネット、書物を二項対立的に捉えるのは、もう時代遅れではないでしょうか。
ネットにもいろいろあります。
このコラムには、
ネットの代表として、まとめサイトが挙げられています。
NAVERまとめは、読みますが、
1 一面的
2 多数決的
3 表面的
4 結果だけ
という特性があります。
いわば、ゲームに参加しないで、ニュースで試合の結果をみるだけです。
しかし、NAVERまとめや、2chだけがネットではありません。mixiですらいろいろあるように、ネットはいろいろです。
一つだけ自分の経験を言うと
トピックの中心にあるものを拾うのは、ネットに限ります。
特に、論文のネットへのアップが常態化したここ十年は、ネットは使いでのあるものになりました。
たとえば、「道元」「夢」というと、どんな捉え方がされて、どこが問題になっているのか、わかります。読み直しのスポットと、先人の誤解釈例がわかります。
誤解釈例と今言いましたが、
書物は、ほぼ誤解釈のかたまりです。
そこを実感しないと何も始まりません。
もちろん、小説や理系は違いますし、
法律のように、「現時点での限界、歴史的なベスト」というものもあるでしょうが、思想や文学は違います。
もちろん、自分が気付くということは、先人がとっくに気づいていること。問題になっていることです。
もちろん、そこから、本を読むという作業に戻るわけですが、何をどういう問題意識で読んだらいいか、時間の節約になることは事実です。
先の「どこかに万能の正解があると思っている人」ではないですが、我々の時間は限られていて、部分にしか関与できません。
だから、世界文学全集を全部読むとか、岩波新書を全部読むという勉強の仕方は出来ません。
中村さんが、サリンジャーを例に挙げているのは、よくわかります。
耽溺できる限られたものを見つけるというやり方しかできなくなっていると思います。
その耽溺できるものが、
ノバーリスやウィトゲンシュタインだという幸福な人もいれば、
大学出たくせに、
「司馬遼太郎は、日本の哲学だ。」などと、本気で考えて、勧めて回る気の毒な人もいます。(司馬遼太郎は、読み本としては評価しますがね)
その辺りは、
「幸福な人の世界と、不幸な人の世界は全く別である」(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』)
というところでしょうか。
中村うさぎとマツコ・デラックスに質問した。「読書って本当に必要ですか?」
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=112&from=diary&id=4395431
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