『河神の誘惑』第11話
「サガ、いるか〜?」
サガと同衾して朝帰りして行ったその二日後、またもや河神が事務局に現れた。
「ア、アケローオス様…」
改めて彼を顔を合わせて、サガは動揺した。河神の姿にあの夜のことを思い出し、気恥しくていたたまれない気持ちになる。彼の腕の中で自分がどれほど乱れ、はしたない様をその目にさらしてしまったかを…。
『…いけない、しっかりしなければ』
心の中で己を叱咤し、動揺を鎮める。事務局で働いている他の者たちに自分の異変を察知されてはまずい。もし彼らから自分と河神の間に何事かが起きたらしいとアイオロスの耳に入ったら…と思うと、サガは背筋がすうっと寒くなるのだった。
「あの…」
「ほら。これ、今日の土産」
河神がサガに持参した紙箱を差し出した。いつもの能天気で、のんきで、気さくな口調には何ら変わるところがない。あの晩にサガを抱いたことなど、まるでなかったかのような態度だ。
「あ、どうも…」
思わずサガは手を出して紙箱を受け取っていた。
「あの…。あなたのジャケットのクリーニングはまだ終わっていなくて…」
「ああ、あれは別に急ぐことはない。今夜は食事に行けるか?カノンも誘って」
「は…い…。多分、大丈夫だと…」
「じゃあ、お前の仕事が終わったら一緒に出掛けよう。それまではここで待っていてもいいか?」
「…はい」
あれ?と、サガは思った。これまでも河神に夕食に誘われたことは何度もあったが、その時は彼はいつも「お前の仕事が終わるまでは適当に時間を潰すから」と言って、どこかに出かけてしまい、終業時刻ごろにまた姿を見せるのが常だった。おそらく、どこかで女性でも引っ掛けて遊んでいるのだろう、とサガは思っていた。
『ここで待つなんて…初めてだ』
いつもとは違う彼の行動をいぶかしく思いながらも、サガは河神を秘書官に応接室に案内させた。
「…で、今日は何を持ってきてくださったんですか?」
執務室に戻ってきた秘書官がサガの机に置かれた紙箱を見て問う。サガは紙箱のふたを開けて中身を確認した。
「…チョコレートパイのようだ」
サガの言葉を聞き、勤務していた事務官たちが嬉しそうに声を上げた。
「おい、今日はチョコレートパイだってさ」
「そうかぁ!じゃあ、お茶にするか」
執務室がざわざわとざわつき、お茶の支度がされ、一気に休憩モードに入った。河神の訪問は、すでに彼らの中で日々のスケジュールの一部と化していた。何しろ、持ってきてくれる「娘たちお手製の菓子」だの「荘園で採れた果物」だのがまた美味で、最高のお茶受けになるのだ。
「しかしあの方もまめですねぇ。おまけに毎回、こうやって土産を持ってきてくださるんて。気がきくじゃありませんか」
秘書官も声を心なしか弾ませて嬉しそうにしている。彼も河神の土産は楽しみにしているらしい。
そうだな、と、サガは軽くため息混じりに同意した。
その夜、河神が双子たちを連れて行ったのは、大衆的な食堂だった。
『不思議な人だ…』
家庭的で素朴な料理の数々を食べる河神を見ながら、サガが思う。きっちりと正装してノーブルな雰囲気を漂わせてオペラやバレエを鑑賞するかと思えば、ノーネクタイのジャケットとパンツ姿で庶民の店に顔を出す。そしてそのどちらの光景にも河神はしっくりと馴染んでしまうのだ。
「…どうした、サガ、食が進んでないな?口に合わないか?」
「あ、いえ…」
河神に問われ、誰のせいだ、とサガは心の中で半ば愚痴り、半ば怒った。こちらはあの夜のことを思い出すだけで平静を装うのが精一杯だというのに、河神の方は涼しい顔をしているのだ。
「サガ、しっかり食わないと夏の暑さに負けるぞ。聖闘士は体が資本なんだから」
カノンが兄を心配するかのような言葉をかける。弟は食欲不振などとは無縁な顔で料理をがっついていた。
「…分かっている」
「あ、アケローオス、そっちのドルマデスを取ってくれ」
「ほら」
カノンに頼まれ、ひき肉を葡萄の葉で包んで蒸し煮にしたドルマデスの皿をアケローオスが彼に手渡す。
サガも努力して食事を取ろうとしたが、結局、豆のサラダやナスとトマトのソースをかけたペンネ程度しか食べられなかった。
「…じゃあ、また今度な!」
さすがに前回に嘔吐までした失態に懲りたのか、あまり深酒はせず、カノンはその夜の外出を切り上げた。官舎の前でサガに別れの挨拶をし、聖域に帰っていく。
サガが官舎の玄関に入る。すると、彼の後ろに河神もついてきた。
「…アケローオス様?」
サガがぎくりとした。いつもなら官舎の前で彼とも別れるからだ。
「お帰りにならないのですか?」
「泊めてくれんのか?」
逆にそう問われ、サガの心臓が跳ねあがる。
「ア、ア、アケローオス様…!」
河神は遠慮なく官舎の中に入った。
「わ、私にはアイオロスが…!」
「あれは一夜の過ちにしたいと?」
「そうです!」
「サガ、おれは一夜で終わらせる気はない。お前を愛すると決めた以上は…他の女にも手は出さない」
ひどく律儀に、河神はサガとの交際を開始しようとしていた。今までは散々に遊んだが、サガとのことは本気だからもうよそ見はしない、彼に操立てしようというのである。
「ですが…!」
「…サガ」
河神が名を呼び、少し声を低くして言った。
「…アテナはこう言わなかったか?おれを味方につけておけと…」
「……!どうしてそれを知って…!?」
「ああ、やっぱり言ったのか」
くすりと河神が笑う。
「…かまをかけられたのですね?」
「ああ。…だが」
自分の胸に手を当て、河神が己を誇示するかのようなポーズを取った。
「おれは有益な男になるぞ。アテナにとっても、聖域にとっても…」
その言葉にサガが目をそらした。うつむき、唇を噛みしめる。
「あなたは…ずるい」
アテナはサガに命じた。「味方につけろとまでは言わないが敵に回すな」「最大限に友好的に接せよ」と。もちろんその言葉には、「味方になってくれるなら助かる」という意味が込められている。そしてアイオロスもサガにこう言ったのだ。「河神を繋ぎ止めておけ」と。
忠誠を誓った両者の言葉が、サガの心を、意志を縛った。河神の求愛を断って彼の不興を買うわけにはいかなかった。
そして心だけではなくサガの肉体の方も…河神の神としての力によって容易に快楽に溶かされ、押し流され、溺れさせられ、彼の意のままになってしまうのだ。体を許すだけで心までは許さない、ただ一時の間だけ心を閉ざして体に触れられるのを我慢していればそれでいいのだ、というだけではすまないのが、この間の体験から分かっていた。心というものは…たやすく肉体に従属してしまうのものなのだ。
心身両面で、サガは河神を拒否できない立場にあった。
「…卑怯だ。ひどい方だ。私が拒めないと分かって…」
「そうだな。…で、どうする?」
改めて問われ、サガは自分の服をぎゅっと握った。
「…先にシャワーを浴びて寝室に行っておいてください。私も後で行きますから…」
心の中でアイオロスに謝罪しながら、サガは意を決した。
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