『河神の誘惑』第5話
「まあ、そういうことだったのですね」
聖域に復命したサガとカノンから一連の出来事を聞いたアテナ沙織はころころと楽しそうな笑い声を立てた。
「いささか拍子抜けでしたが、大事にならなくて何よりでした」
真面目腐った顔をしたカノンがひざまずいて面を伏せながら報告を終えた。
「アケローオス河神が…あの伯父があなたがたと知り合いとは…」
沙織は何事かを考えていた。
「…あの方は、ハーデスやポセイドンほど強い神ではありません。ですが、それでも『河の王』…」
呟いた沙織が、眼前にひざまずく双子座たちに居ずまいをただす。
「アケローオス河神の力は私やポセイドン、ハーデスには劣りますが、人脈に並々ならぬものがあるのです。河の神の筆頭として海皇ポセイドンに近く、かといってポセイドン陣営に属するわけでも、また私に味方するわけでもなく、その立場は中立です。一方、あの方の妹でありニケの母でもある冥界の大河ステュクスは冥界の女神であり、彼の娘であるセイレーンたちはハーデスの妃ペルセフォネーの侍女をしています。そしてゼウスの妃ヘラは、彼の父オケアノス神の養女なのです。また妹の一人エウリュノメはヘファイストスの養母であり、その娘である優雅の女神カリスたちはアフロディテに仕えています。彼は天、冥、海の三界いずれとも顔をつなぐことができる立場にあるのです」
ですから、と彼女は続けた。
「私としてはアケローオス河神と敵対したくはありません。また、これ以上の敵を神々の中に作りたくもありません。サガ、カノン、もし今後あの方から接触があったら、可能な限り好意的に対応してください。味方につけろとまでは言いませんが、くれぐれも敵には回さぬように」
「…はっ」
双子座の双子たちは仕える女神に向かって深々と頭を下げた。
とまあ、双子たちが沙織からこんな風に念を押されたその二日後。
オフホワイトのジャケットとライトブルーのシャツ、ネイビーのパンツ姿という現代的な格好をしたアケローオス河神が、アテネ市にある聖域の事務局を訪ねてきた。
「お〜い、サガ、いるか?」
能天気な声をかけながらのっそりと事務局に入って来た背の高い見知らぬ男の姿に、働いていた事務官たちの視線が集まった。
「…アケローオス様?」
話を聞いて出て来た事務局長のサガが、この前会ったばかりのアケローオス河神の訪問に驚いた顔をする。
「どうして急に。何の御用ですか?」
「いや。暇だからお前と遊ぼうと思って」
「……」
あまりにお気楽でつまらない河神の用事に、意表を突かれ、また呆れ、サガはむっつりと黙り込んでしまった。
「あ、これ、娘の河の妖精(ナイアデス)たちが作ったブルーベリーのタルトだ。皆で食ってくれ」
「…どうも」
河神が手にしていた白い紙箱をサガは受け取り、己の秘書官に手渡した。
「で、遊びに行けるか?」
「…私はまだ仕事中なんですが」
「そうかぁ。じゃあ仕事が終わったら一緒に飯でも食いに行くか。おごってやる。出来ればカノンも呼んで」
「……」
これまたマイペースな河神の言い草にサガは再び黙り込んでしまったが
『可能な限り好意的に対応するように』
という女神からの言いつけを彼は思い出してしまった。アテナの命には逆らえない。
「ええと…。では仕事は定時に終わると思いますので、それまで待っていただけますか?」
「いいぞ。時間はこっちで適当に潰すから気にするな。また迎えに来る」
と言って河神は事務局を出ていった。
『いったいアケローオス河神はどういうおつもりなのだろう?』
秘書官が切り分けてくれたブルーベリータルトをもそもそと食べながらサガは考えた。「暇だから遊びに来た」という言葉をそのまま受け止めていいものか?
サガはあれこれと河神の意図を考えたが、ともあれ取れたてのブルーベリーを使ったらしいニンフお手製のタルトは絶品で、相伴にあずかった事務局勤務の者たちはおおいに舌つづみを打ったのだった。
これを境に、河神は三日と開けず「おーい、サガ、遊ぼ!」と手土産持参で事務局に顔を出しては、サガとカノンを、食事に、映画に、音楽会に、と連れ出すようになったのだった。
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