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2015年06月01日07:37

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国立大学の文系学部が、なくなる? 資料の続き

続きです


営利企業モデルでは、子供たちは「教育商品の買い手=教育サービスの受益者」とみなされます。でも、学校教育の最終的な受益者は教育を受ける個人ではありません。共同体全体です。まっとうな大人が育ってくれないと先行き社会が保たないからこそ公教育が存在する。金儲けのためにあるわけじゃない。

だからこそ、ヨーロッパの多くの国がそうであるように、教育は「無償」というのが本来の姿なのです。日本でも明治以来、国立大学を全国に設立し、学費を抑え、奨学金制度を充実させて、できるだけ多くの若者たちに就学機会を提供しようとしてきました。

それは勝ち残ったものだけが立身出世でき、自己資産を増やせるという生き残りレースに若者たちを投じるためではありません。彼らが日本の未来を託すことのできるような市民的成熟を果たすように支援するためです。教育がもたらす知識や技能は「商品」ではありません。それは本来共同体が若者に一方的に、無償で贈与すべきものです。

しかし、今、学校は教育「商品」の売り手であり、子供たちとその保護者は「消費者」として、授業料や学習努力という「代価」を支払ってそれを手に入れるというモデルで人々は教育をとらえています。商取引である以上、消費者たちは「最低の代価で、最高の商品」が手に入る機会を血眼になって探す。「賢い消費者」たるべく最大の努力を惜しまない。でも、それが「買い物」である以上、子供たちはいずれ「最低の学習努力で最高の商品を手に入れる方法」だけを考えるようになる。

学校が「商品」を売る店舗であるなら、人気のない学部・学科が淘汰(とうた)されるのは仕方がない。国立大学で教養学部が廃止され、今回また文系の教育が打ち切られようとしているのは、この学校教育への市場原理の導入の論理的帰結です。

これから何が起こるか、だいたい想像がつきます。まず地方の国立大学から定員割れ、募集停止が続出し、いずれ統廃合される。最終的に残るのは、最低のコストで日本中どこでも同じ標準的教育サービスが提供できる「コンビニ型」大学と、文科省がある限りの教育資源を投下する「グローバル競争に勝ち残れる」大学だけでしょう。教育の多様性が失われるだけでなく、子供たちの就学機会そのものが減少する。経済的な格差拡大と同じように、教育資源の分配においても少数の「超富裕層」と圧倒的多数の「貧困層」への二極化が起きるのです。

日本よりも先にグローバル化が進んだ韓国でも、国立大学の地盤沈下が問題化しています。特に人文系の凋落がひどい。最も人気がない学科は韓国文学、韓国語学、韓国史学だそうです。そんなものを学んでも就職先はないし、高い年収も約束されない。学生たちは「実学」系学科に流れ込む。

でも、国立大学が自国の歴史や文化に対する愛着も関心もなく、ひたすら「グローバル資本主義」に自分を最適化させ、高い地位と年収をめざす学生たちの競争と格付けのためだけの場になった国に未来はあるのでしょうか。私が会った韓国の教育者たちはそのことを強く懸念していました。そんな人間ばかりになったら、国に明日はないからです。「次世代を担う成熟した市民」は、自分の共同体に対する強い愛情や帰属意識を持ち、国の制度や文化を支え続ける責任感の持ち主でなければならないからです。

旧帝大をはじめとする国立大学は、そうした「国家須要(しゅよう)の人材」、エリートを育てることを目的につくられたものでした。だから、文化芸術から政治経済まで幅広い人文系の教養が求められた。国公立大学から「文系」をなくすという文科省の「通達」は、「国内の大学ではエリートをつくらない」ということを含意しています。

「次世代を担う成熟した市民の育成」を放棄した国に未来がないことは誰の目にも明らかです。しかし、「それでいい」というのが大学の「株主」たる財界の意向です。彼らにとって重要なのは国の未来よりも自社の利益・株主の利益です。彼らは四半期タームでの収益や株価だけに興味があり、「国家百年の計」は一顧だにしない。

彼らが当面必要としているのは、「グローバル人材」という名の、能力が高く、安い賃金で体を壊すまで働いてくれて、いくらでも「換えがいる」労働者たちです。大学はそのような人間を育成し、格付けする機関であればいい。「グローバル人材」として使い捨てにされるのがいやなら、「使い捨てをする側」になるしかない。けれども、そのキャリアパスはきわめて狭いものになりつつあります。

かつては、どれほど貧しい家庭の子供でも、公立の小中高から国立大学に進み、そこから上場企業や中央官庁に入るという定型的なエリートコースがありました。かなり広々としたキャリアパスが出身階層と無関係に存在した。勉強さえできれば、そのキャリアパスは開けた。しかし、そのような牧歌的な時代は過去のものとなりつつあります。

すでに経済的に豊かでなければ東大にも入れないというデータが開示されていますが、それどころではない。いまや富裕層は子供たちを中等教育から海外に留学させ、ケンブリッジやハーバードなど海外の超一流大学に送るというコースを選択している。それだけの資産と文化資本を持った超富裕層の子供たちだけが、これから日本のエリート層を形成していくことになりかねない。

つまり、「人を使う側の人間」は富裕層内部で自家培養するから、残りの99%のみなさんは「使われる側の人間」として頑張ってくれ、と。にべもない言い方をすれば、それが今進められている大学改革のメッセージです。

危機感から創設された「私塾」への期待

教育は子供たちの選択肢の多様性を担保し、それぞれの潜在的資質の開花を支援するためのものでなければならない。私はそう信じています。

ですから、教育資源を階層格差に応じて傾斜配分するという今進められている仕組みはどうしても許容することができない。もう一度、学校教育の社会的使命は「成熟した市民の育成」であるという原点に立ち戻らねばならないと思います。

では、親たちにできることは何でしょうか。とりあえずはこのような流れに抗(あらが)う「オルタナティブ」(代替的)な教育機関を支えることだと思います。

私が主宰する「凱風館(がいふうかん)」を含めて、今、各地で無数の「私塾」が創設されています。小学生から社会人まで、対象も教える内容もさまざまですが、共通するのは日本の教育に対する危機感です。そして、営利目的の教育機関とはまったく違う、個人が身銭を切って手作りした教育機関が次々と立ち上げられている。

かつてなら大学院に残って教員になったはずの若い優秀な研究者たちまでもが次々と大学に背を向けて、自分の「私塾」を開いている。

まだメディアはそのような風潮に気づいていません。でも、私は日本の学校教育が「潮目の変化」を迎えていることをはっきり実感しています。




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