私は
浄土真宗大谷派の仏教徒ではあるが、宗教観は仏教の枠に当てはまらないと思っている。
今朝のユメの報告で申し上げた「蓮座(れんざ)」の観念は実は先人のものではなく、私が考え出したものである。
いかにして死ぬか。また、いかにして生きるか。
生涯を通して頭のなかを貫くのは、この求道こそが絶対的なものに位置する。
そのことを初めて自覚させたのは、「
フランダースの犬」のネロであった。
ルーベンスの絵の前で息絶えるという死に方に、幼少時の私は文字通り頭を雷で撃たれたような感触を覚えた。
私もこの絵の前でなら死んでもいいという作品に出会えるだろうか?小学生の頃から
エッシャー、
ダリ、
マグリット、
キリコ、果ては
イヴ・タンギーと変な絵ばかりに親しんできたけれども、高校生になってとうとうそういう作品に出会った。上に貼った
フリードリヒの「日の出に立つ女性」である。初めて観た瞬間、涙があふれ出てなかなか止まらなかった。その後、当時の日記に
西行の歌を引用している。
何事のおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる
私はかたじけなさを恋愛感情のひとつと考えている。従って、ネロはルーベンス描く美に恋し、その恋に殉したのであり、私にとってフリードリヒ描く美は生命を賭けてもいいくらいの恋の対象である。
これを
三島由紀夫はサクリファイスの精神と説いている。であれば、供犠こそが私の宗教観の根底といえよう。
それは日本人としての自覚にもいえることで、私が愛するのは国家としての日本国ではなく、毎年散りゆく桜でいっぱいの内部風景に広がる日本美そのものなのだ。その美のためなら例え日本国が滅んでも構わないとさえ考える。
美のためなら死ねる。
そういうファナティックな心情をたしなめたのは祖父であった。亡くなる少し前、典型的な明治の人間である祖父は私に
明治天皇の歌を紹介した。
目に見えぬ神の心に通うこそ人の心の誠なりけれ
燃えるような恋と同時に、静かな恋も持ち合わせよ。祖父はそう解釈して、私に慈しみの心をキエチーフにするようにと説いた。
それでようやく私はバランスがとれたのであった。
私の神は見えない神である。
同時に、内部風景を常に拡げてくれる神である。
私は私の神に向かっていつも声高に愛を叫ぶ。
私の神は聴こえていないが、代わりに微笑み返してくれる。
それは見えず、
聴こえず、
匂わず、
五感では感じられない。
しかし確かにそこにあるのだ。
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