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2006年08月03日00:19

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オリジナル小説「古杣」

 赤尾藤十郎は樵で日銭を稼ぎ、祈祷師で村における地位を保ち続けていた。もう八十を越えた齢だが、まだ身体は壮健だし、長年の習慣に従って動くだけである。手足が動くうちは働く。連れ合いはもうずっと昔に、闘犬用に飼っていた土佐犬に咬まれて死んだ。子供は息子が一人いたが、樵の商売と祈祷師のうさん臭さに嫌気がさして、都会に出て行ったきり音信不通である。全く侘しい、山の老人の一人暮らしだったが、祈祷師としての立場上、そんなに不自由でもなかった。時たま話し相手が向こうからやってきたからだ。昭和天皇が崩御するまでは、藤十郎は孤独だけれども、結構人生を愉しんでいた。
 その日、藤十郎は玄関に山奥には場違いな客を二人迎えていた。一人はどぎつい化粧に派手な格好の中年女性で、もう一人は四、五歳の可愛らしい幼女だった。見ただけで、都会から出てきたと分かる雰囲気が漂っている。もし、この村で生活するとしたら、何もかも揃ったどこかのホテルでなければ生きられないたちだ。要するに自分の手を泥にまみれさせて生きることが出来ない輩だ。都会人特有の傲慢さを敏感に感じ取った藤十郎は、わざと不機嫌な声で「何の用じゃ」と言った。すると、中年女性は負けず劣らずの不機嫌な、しかもトゲのある声で「長司の女よ、あたし」と言った。長司は家出した一人息子の名前である。藤十郎は目を大きく見開いた。「この子は娘よ、つまりあんたにとっての孫ね」幼女はうつむいたままで、赤い靴で土間の上に円を描いている。「長司は?」藤十郎の問いに中年女性はフンと鼻を鳴らし、酒と煙草で爛れた声でムッと匂うようなことを吐いた。「死んだわ、どこかのチンピラに刺されて」それから中年女性は消えた、幼い娘を残して。孫だから面倒を見ろということだろう。それにしても、あんな女の言うことなのに、何故こうも息子が死んだことが実感となって迫ってくるのだろうか。しばらく虚脱状態にあった藤十郎は、ぶるっと身体を震わせると、まだ土間に立っていた孫娘を中に入れた。孫娘の名前は悦子といったが、名前の響きが気に入らなかったので、小夜と名付けた。こうして藤十郎と小夜の生活が始まった。
 小夜は幼女とはいえ、魅了されるような美しい顔立ちをしていた。大きゅうなったら、きっと山の神さんに捧げてもええくらいの乙女になるじゃろう・・・しかし、惜しいことにこっちに来てから一言も喋りよらん。唖じゃろうか。そう言えば、耳も聞こえんようじゃ。いくら呼んでも返事せん。雷にも反応せんし。つんぼに加えておしのかたわもんか・・・あの女、厄介払いしおったな。畜生めが。藤十郎のところに小さな可愛い女の子が住みついたということは、あっという間に知れ渡り、後を追うように聾唖者の可哀想な女の子だということも知れ渡っていった。今まで祈祷師として相談を受ける立場じゃったというのに、学校のこととなると、こっちから相談しに行かねばならぬとは・・・そう呟きながらも、藤十郎はまだ生活を愉しんでいた。八十を越える高齢の身で、そこらへんのガキを抱えてヒイヒイいっている若い親と同じ立場になった自分が、どこかおかしくて楽しくなってきたのだ。かたわもんでも孫娘は孫娘だ。可愛いものだ。特に容姿のはっとするほどの美しさが、藤十郎の虚栄心をくすぐった。かたわなのがちくと惜しいが、この美しさはどんなもんじゃ・・・皆の衆、これがわしの孫娘じゃぞ。わしの血が流れとる娘なんじゃ。
 藤十郎が三十歳前後の頃、父親が行方不明になったことがあった。戦争が終わり、玉音放送が流れて間もない頃だった。藤十郎自身はまだ復員していなかったが、妻と母親が村中の老人、女子供に頼んで山狩りまでやって捜し回った。それでも見つからなかった。他の若いのが復員する度に捜索は再開されたが、結果は見事なまでに期待を裏切るばかりだった。一年近く経って、ようやく父親が発見されたが、見つけたのは藤十郎であった。復員したばかりの夜、親兄弟集まって祝ってもらって、大酒を飲んでいい気持ちになって山の中を散歩している最中に見つけたのだ・・・いや、正確には向こうの方から飛びかかってきたのだった。その時、藤十郎は姪に怪談を聞かせて怖がらせたばかりだった。この土佐の山奥には、衾ちゅうお化けが出よるんじゃ。何だかふわふわしたもんでな、山ん中を歩いちょるもんをいきなりパッと包んで、そんままじわじわと窒息させるそうな。おまんも気いつけるがええわ、お化けはおまんみたいな女の子が大好物じゃきによ・・・そう言って、姪を泣かせたはいいものの、こうして深い闇に包まれた山奥を歩いていると、ふいに腹の底からグーッと固いものが込み上げてきて、足元をよろめかせた。恐怖心が出てきたのである。チッ、アホウめが、ありゃムササビのことやき、何も怖がることなんかありゃせん。そこで側の杉の大木に寄り掛かって一息入れた途端、何かがバサーッと頭の上に被さってきた。何かゴツゴツ、ガラガラしたものが、藤十郎の頭や顔を強かに打ちのめして、そのまま地べたに叩き伏せた。藤十郎は肺いっぱいの空気を振り絞って絶叫し、死に物狂いで被さってきたものをむちゃくちゃに振り払った。生臭いような、腐ったような臭いが辺りに立ち込めてくるのを感じて、藤十郎はそいつを月明かりでじっくり眺めた。「親父!」そいつはほとんど白骨化した父親だった。白い骨が剥き出しになった首には、腐った荒縄が幾重にも巻きついていた。木の上で首を吊ったのだ・・・これじゃ、いくら捜しても出てこんわ。父親が何故自殺したのかは、今日に至るまで分からずじまいだった。戦争下の厳しい状況でも生活に不自由はなかったし、また人間関係も狭い村の中では親兄弟同然のつきあいで別にやましいところはなかった。悪い噂も祈祷師という身分上、全く皆無であった。それにもかかわらず、父親は首を吊ったのだ。遺書も残されていないし、これと思い当たるものもない。想像の余地もない。そこまで回想に耽っていた藤十郎はハッと我に返り、庭に突っ立っている小夜を見た。犬小屋の前に屈み込んで、五、六匹の子犬に手を舐めさせている。一瞬、藤十郎の脳裏に咬み殺された妻の悪夢が蘇ったが、荒っぽい土佐犬からいくらかおとなしい柴犬に変えたのを思い出して、やれやれと溜め息をついた。見れば可愛いもんじゃ、子犬どもめ、争って小夜の手にむしゃぶりついとるわい。わしの小夜には、いかなるものも争ってむしゃぶりつく。
 小夜にとって、世界は目の中に入ってくるものが大部分を占めていた。後はあまり関心がない・・・空気のようなものだ。藤十郎の家に来てから色々なものを見た・・・トンネル。川。山道。山林。丸太。急な坂。蜘蛛の巣。畑。平屋造りの家屋。鶏小屋。ふっくらとした鶏。犬小屋。逞しい犬。古椿の木。小さな鳥居。そしてその奥の祠の扉を開けると、小夜の心はその中へ吸い込まれていってしまう。闇が迫ってきて、周囲に朧げな白い影が漂ってくる。何かが微かに聞こえてきて、だんだん高まって、弱々しい犬の鳴き声になってくる。再び闇、今度はさらに深い闇が迫ってきて、その中から青々とした樹々の匂いが漂ってくる。ひんやりとした山特有の清涼な風が頬を撫で、月の光に白く照らされた杉の大木が浮かび上がってくる。そこには杉だけでなく、一つの縊死死体が浮かび上がっている。擦り切れた着流しの老人の死体だ。奇妙に伸びきった首には腐った荒縄が幾重にも巻きついている。老人が顔を上げると、カッと見開いた目と突き出た真っ黒な舌が現れる。荒縄が切れ、老人の身体がさっと落ちると、老人は生きた人間のようにうまく着地して、グロテスクな形相のまま、こちらに両手を突き出して走り寄ってくる。そこで、小夜は思わず祠の扉を閉めてしまった。
 「そりゃ、行くぞ、退いちょれ、退いちょれよーっ」威勢のいい掛け声が響き渡り、続いてボキボキバリバリと無数の枝の折れる音、木の裂ける音が轟き、ドーンと大木の倒れる音が震動とともに響いてくる。鳥のバサバサいう羽ばたきも聞こえてくる。山小屋の中で、若い樵がすわと腰を浮かして「何じゃ、今のは!」と叫んだ。「えらい音じゃながか、どこぞのバカ者が勝手に斬り倒しよったんか」その狼狽ぶりを見て、藤十郎たちは声をあげて笑った。「何がおかしいんじゃ」ヒッヒッと笑い声を切り、藤十郎は説明してやった。「ありゃあ古杣じゃ。まだ若いき、知らんのも無理ないわ」他の老樵たちがウンウンと相槌を打つ。「フルソマ?」「音だけが聞こえてくるゆうもんじゃ。何なら音がしたとこへ行ってみるがええ、何も倒れちょらんわ。そういうもんじゃ」「そんなアホな、あんだけハッキリ聞こえちょったき、マボロシなんてことがあるかい」若者の傍らに座っていた老樵が笑って、若者の肩を力強く叩いた。「ほんじゃ今から見に行くか、ええ?」「ええとも」若者はすっくと立ち上がって、自分の荷物の中から大きな古い鋸を取り出してきた。昔の樵が使っていた伐採用の本格的な分厚い鋸である。「何じゃ、そりゃ」「わしんとこのひいジイやんが使うてたやつじゃ。よし、鬼刃はかけちょらんと」根元の四角張った刃を撫でながら呟く若者を見て、藤十郎はニヤリと笑った。「ははあ、牛鬼か。分からんやつじゃのう。信じちょるんか?」「ああ」この若者の頭の中には、先祖代々語り伝えられてきた伝説が現実として根を下ろしているのだ・・・昔、深い山奥の山小屋で一人の樵が 鋸の手入れをしながら夜を過ごしていた。ギザギザの刃を水に濡れた指で撫でていっていると、戸口に見たこともないような真っ黒な大男が立っている。「入ってもええか」と聞く。樵はちょうど話相手が欲しかったところなので、ええともよと答えた。しかし大男は入ってこない。どうしたと聞くと、「明日また来る」と言い残して回れ右をして行ってしまった。何じゃありゃと思って、次の晩も仕事を終えて鋸の手入れをしていると、また真っ黒な大男がやってきた。同じように「入ってもええか」と聞いてくる。入れ入れと答えると、また入ってこない。こいつ、へそまがりかと思いつつも、樵は何ぞ気に食わんもんでもあるのかと理由を聞いてみた。すると質問には答えずに「明日また来る」とだけ言い残して去ってしまう。次の晩も同じように鋸の手入れをしながら大男の来訪を待っていたが、突然パキンと音がして根元の四角張った刃が折れてしまった。鬼刃というもので、他の小さく尖った刃よりも大きく力強いという意味で鬼の名がついているのだが、他にも妖怪の類いを退ける魔除けの意味があった。そこで樵はハッとした。あの真っ黒な大男が戸口に立っていたのだ。いつもと違って嬉しそうな声で「入ってもええか」と聞いてくる。樵は恐怖のあまり身体を硬直させるだけだった。返事を待たずに大男は中に入ってきて、樵の向かいにドッカリと腰を下ろした。「やっと落ち着いたのう」樵は震える声でやっと言った。「おまんは何者じゃ」大男はいやに大きな口を開けて答えた。「牛鬼じゃ」翌朝、仕事仲間 が山小屋に入ってみると、二目と見られぬ無残な死体となった樵が発見された・・・そ れ以来、鋸の鬼刃は折らぬように大切にされてきているという話だが、同じように語り伝えられている古杣を信じようとせずに、牛鬼は受け入れる若者に対して、藤十郎はいささか人間のおかしみを覚えた。
 それから、一同は音がしたと思われる場所へ向かった。しかし、どこを見回しても木が倒れた形跡はなかった。
 小夜は何となく、少女マンガ雑誌を開いていた。藤十郎が近所の娘持ちの家族のアドバイスを受けて、町から女の子が喜びそうなものと一緒に買ってきたのである。他にはクマのぬいぐるみとか金髪の少女人形とかがあったが、小夜は絵本とかマンガ雑誌の方を好んだ。こっちの方が目の中で世界が広がるからであった・・・町で見たビルの数十倍は高いビルが墓石のように立ち並ぶ都会。蟻の行列のような車の列。ショウウィンドウの中のマネキン人形のように無機質的な印象を与える無数の通行人。都会は生命力がない・・・騒々しいのは見かけだけだ・・・その中で繰り広げられる恋愛物語。クセのあるヒロインがこれまたクセのあるハンサムな男の子と恋の駆け引きをする・・・小夜が少女マンガ雑誌から学んだものは、誰もが見かけを死ぬほど大事にしたがっているということだった。見かけだけが全て。みんな見かけの中で夢を見る。夢の中で小夜はもう一人の自分自身に出会う。彼女は元の悦子という名前で、自分の倍も齢を取っていて、すっかり大人になっている。悦子は歌手でタレントだ。よく歌い、よく喋る。色々な男と女と色々な形の恋愛をして、名を売って、ひとつのヴィジョンとしてほとんどの文明人どもの脳の中に入り込んでいる。小夜は悦子の前に立つ。悦子は小夜を見て不快に顔をしかめ、低い声で「あっちへ行ってよ」と言う。しかし、数十人のカメラマンやレポーターに囲まれると、にっこりと笑って小夜を抱き上げて「この子が強く生きるように祈りますわ」と言う。それから二人きりになると、悦子は小夜に背中を向けて歩き出す。そして小夜はそっと泣く。その後、絵本の夢の世界でしばらく休息する。毒々しい情念の描写を徹底的に抜いた、子供向けの絵本の世界は全く心が安らぐ。それからまた小夜は少女マンガ雑誌を広げて、毒々しくて刺激タップリの情念の世界に耽る。泣いたりするように興奮したいからだった・・・ いまや、小夜の現実との接点は興奮することだけだった。
 小夜は小学五年になった。肉がついてきて、すっかり娘らしい身体つきになった。顔も少女ながらハッとするくらいに美しい。ただ残念ながら聾唖は変わらなかった。ついでに自閉症ぎみもだんだんひどくなるばかりだった。それまでは村の小学校で特別に面倒を見てもらっていたのだが、将来を考えて、思い切って聾学校などの施設に入れたらどうかと先生たちに言われて、藤十郎は自分の生活環境がだんだん加速していくのを感じていた。もう面倒見切れん言うわけか。難しい年頃ですからだの、女の子ですからだの、どいつもこいつもとってつけたようなことばかりぬかしよらあ。それがどうしたんじゃ。畜生め。ハッキリ言うたらどうなんじゃ。厄介払いしたいとな。わしには分かっちょるんじゃ。何も分からんと思うなよ、わしは何もかも知っちょる。みんな小夜が疎ましいんじゃ。畜生めが。そうじゃろう、何たって小夜は特別じゃき、おまんらとは根っから出来が違うわ。耳と口がだめでもその分特別な力を持っとるわ。神さんと通じる巫女の力をな。時々一人で遠い目をするが、あれがそうじゃ、神さんと通じちょるのよ。何たってわしの孫娘じゃきよ。わしの血が流れちょるきよ。わしの小夜は神さんの娘じゃ!それをないがしろにしおって、どいつもこいつも祟ってくれるわ!
 それから小夜は二度と小学校に姿を見せなくなった。先生たちが藤十郎の家を訪問しても、全然相手にされなかった。いつも無視されるばかりだったのである。村の人たち、樵たち、果ては祈祷師仲間たちが訪ねて行っても、二人はまるっきり姿を見せなくなった。だいぶ経って、山奥で二人の変死体が発見されるまで、藤十郎と小夜は完全に現世と縁を切ったのである。
 町の大学生たちの間に奇妙な噂が流れた。自然の観察と研究のために山奥へ出掛けた獣医学部の四人組が、上流の奥の険しい、岩のゴロゴロしたところで恐怖映画そこのけのひどい目にあったというのだ。まず、リーダーがあそこの平べったい岩は昼飯を食うのに丁度ええ、あそこまで行こうと前方の巨岩を指さした。そこへ近寄っていくうちに、一人がおい見ろ、女の子がおるぞと巨岩の下を指さした。そこには小さな川が流れていて、その真ん中で十歳前後の少女が素っ裸で水を浴びていた。雪のように白くて透き通るような肌・・・さらりと流れるような黒髪・・・華奢だが女を感じさせる身体つき・・・そのうち、少女は四人組に気付いたらしく、顔を上げた。何も反応らしい反応をせず、樹々でも眺めるような自然な顔つきだった。四人組はハッとした・・・まるで山の精霊でも見るような思いだった・・・うっかりすると魂を抜かれるくらいに恐ろしい美しさだったのだ。少女は無表情に目を大きく見開いたまま、隠すべきところを隠そうともせずにスッと川から上がり、四人組に向かってサッサッと歩いてきた。一人がヒイッと恐怖の呻き声を上げた。つられて他の三人も名状しがたい感情にとらわれて、思わず後退った。この世とは思えぬ美しい少女が羞恥心らしいものを見せずに、無表情で歩いてくる様は、かえって痙攣的な恐怖を呼び起こした・・・とうとう四人組は逃げ出した。その時、四人組は走っている山道の先に誰かが立っているのに気付いた。真っ黒な大男だった・・・しかし、よく見ると真っ黒に汚れた手ぬぐいを顔中に巻きつけ、泥でカチカチに固まった作業服を着た老人だった。手ぬぐいの間から除く両目が不気味に輝いている。そこで、四人組は老人の右手が猟銃を握っているのを見た・・・腰にぶら下がっている大きな鉈も・・・ふいに、老人の両手が動き、猟銃が構えられた。銃口が四人組に向けられる。叫び声が山中に響き渡り、四人組はバラバラに散って山林の中へ飛び込んだ。銃声が二度轟き、山道の真ん中が弾け飛んだ。また銃声が轟き、一人は頭のすぐ上をギーンと疾る金属的な音を聞いた。誰もが足を素早く動かすことに全神経を集中していた。しばらくして、ようやく四人組は村の駐在所に転げ込むことが出来た。事情を聞いて、警官たちは顔を厳しくして言った・・・「一体どこに隠れちょるんじゃ、もう山狩りを十何回もやっちょるのに。おまんら、どこらへんで見た?」
 それから徹底した山狩りが何回も繰り返されたが、真っ黒な老人と妖しく美しい少女はどうしても見つからなかった。
 藤十郎と小夜は、山のずっと奥にある御神木とされる千年杉の下に穴を掘ったところで暮らしていた。穴の底は枯れ葉を敷き詰めた上にむしろを敷いてあるので柔らかい。雨、風、動物、虫、全てに対する対策は、藤十郎が南方戦線で身につけた密林生活の知恵と工夫で切り抜けた。おかげで小夜は病気ひとつせずに健康に育っている。美しく育ってもいる。そして藤十郎自身も老いてますます盛りがきている。
 今や、藤十郎は父親の自殺の真相を理解していた。樵や祈祷師は誰よりも山に近い存在だ。従って、山の影響を誰よりもモロに受ける。父親を自殺に追い込んだのは山だが、実は現実の山ではなく、自分の内奥に隆起した山なのだ。そこではいつでも盛りが最高潮の状態だ。それで耐え切れずに、とうとう自分の山に呑まれて父親は首を縊ってしまった。しかし、わしは逆に手前の山を呑み込んでもうたわ。こうしてみると、人間というもんがいかにこんまいもんでしかないか、よう分かる・・・ははははは・・・そりゃ行くぞ、行くぞ、退いちょれよーっ・・・ビューンビューン・・・ボキボキバリバリ、ドーン!・・・ははははは・・・入ってもええか?・・・明日また来る・・・やっと落ち着いたのう・・・ははははは・・・そのうち、わしと小夜は逆立ちして彼岸に入る。
 最後の日、小夜は藤十郎の目の前で服を脱いでいた。透き通るように清らかな肌があらわになり、涼風のように爽快な色気が漂ってくる。藤十郎は手真似で服をよこせと伝え、差し出された小夜の手から服を受け取った。それから周囲をもう一度確認すると、小夜に向かってコクリと頷いた。水を浴びてもいいという合図である。小夜はゆっくりと水を浴びはじめた。水が流れ、小夜の中にぼやけた空間が現れる。それがだんだんはっきりしてくる……山だった。現実とは違って、樹々が、無数の樹々が枝を振り広げて舞い踊っている。ザワザワ、バサバサ、ズシンズシン、ディズニーアニメの絵本で見た顔のある大木のように舞い踊っている。そのおかげで山全体が揺れ動いていた。突然、空間が起き上がるように逆転して、妖艶な大人になった悦子が現れた。悦子は言う、「素敵よ、まるで胎児だった時みたい」・・・悦子が消えて、我に返った小夜は、岩の上にいる藤十郎に目をやり、それから足元に目をやった。さらさ らと流れる川の水面の上を、一匹の蛇がこっちに向かって泳いでくるのが見える。チロチロと舌を出し入れしている。その瞬間、原始的な恐怖が痙攣として小夜の身体を打ちのめした。絵本や少女マンガ雑誌で覚えた言葉が頭に浮かぶ。嫌。助けて。誰か。藤十郎の姿が急速に遠ざかり、一瞬、急激な痛みで意識が戻ったが、そのまま小夜は闇の中に沈み込んでしまった。
 水が跳ねたので、ギョッとして藤十郎は小夜の方を見た。倒れちょる。股に蛇が。畜生、蝮じゃ!糞ったれめ!藤十郎は腰から大鉈を抜くと、小夜に駆け寄り、股に咬みついている蝮をつかんで岩に思いっきり叩きつけた。蝮の肉が裂け、河原に落ちたところを、頭めがけて大鉈を叩き込んでやった。それから素早く小夜の股の傷を確認すると、口をつけて肉を噛み切って血を啜りはじめた。ベッと血の塊を吐き捨て、また啜り、また吐き捨て、何回も繰り返し続けた。
 何かが股に咬みつき、そして今また何かが股を吸っている。闇の中から浮かび上がってきた小夜は、ぼんやりした目で、自分にのしかかっているものを見る。真っ黒な大男だ。その瞬間、また痙攣的な恐怖が小夜を襲った。嫌。蛇より怖い。言葉が頭の中を駆け巡るが、麻痺した感覚が元に戻っていくと、何か大きな威力を持ったものが頭の中から溢れ出てきて、言葉を完全に駆逐してしまう。恐怖にも勝るそれが小夜の内奥の山をハッキリと浮かび上がらせる。藤十郎の歯と舌と唇の感触が官能的な、原始的な感情を呼び起こす。山の中では悦子が全裸で笑いながら跳び回っている。嫌。悶え、のたうちまわり、藤十郎から逃れようとする。荒く息を吐いて足を動かそうとする。しかし、もがけばもがくほど、戦慄的なものが身体中を駆け巡る。悦子が嬉しそうに絶叫している。ああ、嫌、あたしは悦子とは違う!小夜は横目で河原に突き刺さった大鉈を見つけ、素早くそれを取ると、藤十郎の頭めがけて叩き込んだ。一瞬、藤十郎がカッと目を大きく見開いて小夜を見た。そのまま白目を剥いて倒れ込む。赤黒い血が溢れてきて、小夜の上に流れてくる。小夜は藤十郎の下から這い出て、岩に寄りかかりながら立った。股の傷口からは真っ赤な血が流れ、胸元には赤黒い血が飛び散っている。そこで小夜は声なき叫びを上げた。
 びっこをひきながら、小夜は山を駆け降りていた。血で濡れた顔を涙が重ねて濡らしていく。恐怖で泣いているのではなかった。興奮が最高潮に達して、感極まって泣いているのだった。どこかから風が吹いてきた。小夜の内奥の山では、血みどろの藤十郎が悦子を絞め殺しているところだった。目を大きく剥き、舌を突き出して悦子は死ぬ。その瞬間、小夜は何かが迫ってくるのを感じた。山が震えている。振り返ると、巨大な木がこちらに向かって倒れてくるところだった。激しい震動が響き渡り、全てが完全な闇に包まれた。
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