今日はエドワード・ゴーリーの誕生日である。猫の日でもあるそうだから、猫を愛したゴーリーらしい日ともいえるだろう。Google先生も気張って誕生日を祝っている。
私はゴーリーの大ファンである、とカミングアウトするまでもなく、好きな方は嫌いなワケがないと笑って下さるだろう。
私とゴーリーの出会いは昭和57年11月1日とはっきり記憶している。この日に新刊として発売されたハヤカワ文庫の「闇の展覧会」上下組の、下巻に短編が編まれているなかで唯一のイラスト読み物で収録されていたのである。
題は「莫迦げた思いつき(The Stupid Joke)」。上に貼ったベッドの坊やフリードリックが仮病を使って寝込んでさんざん家族を心配させた挙げ句、羽根が生えたベッドに連れ去られてしまうというハナシだ。夜が明けて戻ってきたベッドが空っぽというオチは当時中学生だった私にゴーリーの世界観を植え付けるのに十分な威力を持っていた。
せなけいこの「ねないこだれだ」どころの騒ぎではない。
他にはシオドア・スタージョン、ラムジー・キャンベル、ロバート・ブロック、リチャード・マシスン、そしてアメリカ版アーサー・マッケンとうたわれるT・E・D・クラインが名を連ねていた(マニア垂涎の豪華メンバーである)のだが、この巻に限ってはゴーリーの総取りという印象だった。
それで同じ読書仲間の友人にゴーリーのページを読んでもらったのだが、ストーリーテラーになるために文章をいかにこねくりまわすかに躍起になっている彼の頭ではさっぱりだったらしく、一言、「ただのマンガじゃないか、こんなもの」と吐き捨てただけであった。
そもそも私はのたくった文章を苦労して読み、何とかして作家の世界観に入り込むという作業が肌に合わない。そういうのが好きなヒトは真性のマゾだと思っている。視覚的にいの一番にゴーリーが飛び込んできたのはイラストのせいでもあったが、それ以上にそのまま歌になる韻を踏んだ言葉使いがスッと世界観に入り込める快感を教えてくれたのである。
ゴーリーいわく、言葉は信用していない。
その意味が分かるのは、バラードやディックから始まるサイバーパンクを読み出す高校時代に突入してからであったが、ゴーリーの絵本を集めて親戚の子供に読ませたり、友人達に見せたりして、こいつは面白い、なんて愉快な本なんだと賛同してくれる人が一人もいなく、要するにゴーリーについて議論出来る相手がいなかったので、ひたすら鏡に向かって自問自答を繰り返す日々を送り、だいぶ時間がかかってしまった。
もっともなかにはゴーリーの残酷な作風のみを気に入って、自分のホラー趣味を満足させるためだけに読むものもいたが、私のゴーリー大好きっぷりと真っ向から組み合うと、ハナシがどうしても噛み合わないのでほんとうに困った。
しゃれが分からないのはほんとうに始末に負えない。
そしてゴーリー最大の特徴である、「空っぽ」、「がらんどう」、「うつろ」な部分を理解し、共有するためには――言葉以外の感覚で没入出来なければならない。
ゴーリーの絵に“かえって余白が目立つ”のはそれなのだ。
「こういう人間だ、とキャラクターを固定されてしまうのは大嫌いなんです。『残酷(ゴーリー)なディテール』だのなんだの、ああいう決まり文句はうんざりだ。わたしが好きなのは、あれでもこれでもないような作品なんですよ。ひとの作品を論じるときに、言葉にできるのは一番重要でない部分だけなんだ。バレエと同じです。バレエ・パフォーマンスを取り巻く部分は、言葉で描写することができる――というか、ほんとの核心部分以外の全てはね。いわば、何かを説明するというのはそれを取り逃がしてしまうことなんです。他のすべては説明できても、大事なことだけは言葉にできない。極端に言えば、価値のあるものとは言葉で描写できないものなんです。モーツァルトの音楽やバランシンの振り付けの核心を言葉にできますか?わたしがヘンリー・ジェイムズの小説を空虚だと思うのはそこなんです。くだくだしい説明を重ねれば重ねるほど、全てが失われていく」
ゴーリーの生涯のモットーのひとつである「オー・ザ・オブ・イット・オール(O the of it all)」をつぶやきながら、一番大好きな絵本「ギャシュリークラムのちびっ子たち」のナンセンスな言葉を口にする。
Aはエイミー かいだんおちた
Bはベイジル くまにやられた
・・・・・・
何かを感じるために人は無表情になる。
Kはケイト まさかりぐさり
Lはリーオ がびょうをごくり
Mはモード もくずときえて
Nはネヴィル のぞみもうせて
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