野坂昭如先生の文章を読んだことがおありの方なら同意して下さるだろうが、先生の文章は三島由紀夫をして「畸形児」と言わしめたほどの個性的な書き方である。
真似しようにも真似出来ない。
このように、読んだだけで誰が書いたのか分かる、個性的な文章は夢枕獏や高千穂遙などの文章を真似して自分の萌えを満足させるような書き方では身につかない。
私は呪いとか怨念のようなものだと思っている。シェークスピアの「テンペスト」に登場するキャリバンのように、言葉を覚えたおかげで呪詛をはけるようになったというあれだ。
レトリックがどうのと言っている文芸評論家はすべて、失語症を発症する先天性アルツハイマーで、彼らの戯言に耳を貸してはならない。
自分の思いをどれだけ込められるか、ただそれのみにつきる。
そこにラノベも高尚な文学もない、フィーバーのみが存在する。読者はそのフィーバーに打ちのめされたいがために本を読むのだ。
亡くなったとよさんは、深酒をしてノドが焼けた、しわがれた声でがなりたてるような、独特の書き方をする人だった。私がリアルでお会いしたことのない、ネット上のつきあいだけの友人の死をこんなに嘆き悲しむのは、文体に込められたとよさんのフィーバーに惚れたからである。
もっともっと彼が書き表すのを見ていたかった。
あなたにしか書けないもの。
私の書き方など、骸骨があわててぼろぎれを羽織ったものに過ぎないけれど、とよさんは昨年ICU入りした私を励ますメールで、「犬神さんにしか書けないものをもっと読みたい」と言ってくれた。
そうやって切磋琢磨しあって、私たちは作品を遺すはずであった。
友を亡くした哀しみをやり場のない怨念に変えて、私は今日も書き続ける。
そういう風に書かれた文章は、血をにじませて肌身に彫られた刺青のように、デモーニッシュ、ファナティックな輝きを増し、さらに私を祓いがたい地霊に変えてゆくだろう。
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