山田風太郎の「魔界転生」に登場する人間だった頃の宝蔵院胤舜は少女を連れていた。少女に対する煩悩に耐えることで武芸を高めるのが目的と記憶しているが、その耐える様を想像して、少年時代は妄想力を膨らませたものだ。
しかし、煩悩の対象としての少女は、実は胤舜以上に煩悩にのたうちまわっていたのではないだろうか。
そのことに気づいて以来、少女の複雑さに魅せられ、犬神図書館にて他所様の子に比べて過激な思想の持ち主に育て上げることを至上の悦びにしている。
蛸が大好きなココの親御さんのように、美術、芸術に関する仕事に就いているがゆえの寛容さがなければ、私はとっくの昔に変質者として肩身の狭い生活を強いられることになったであろう。
犬神図書館は基本的に幼年であっても、成人向けも読んでいいことになっている。ただし、男の子は笠間しろう、椋陽児は読みたがらないが(気持ち悪いのだそうである)、女の子は積極的に読みたがる。その結果、イマドキの萌えエロを鼻で笑い、70年代の泥臭いエロスに傾倒する子が増えた。ヤルだけのハナシより、精神的にそういう気分になるハナシの方がいやらしくってたまんない・・・
かつて少女であった人たちが萩尾望都の「ポーの一族」を読んでお耽美に耽ったように、犬神図書館の少女たちはバタイユの「眼球譚」、マンディアルグの「城の中のイギリス人」を読んで、エロスの彼方にあるお耽美に耽る。
少年たちはハッキリ言って完全に置いてきぼりを食う・・・
私はかつて本を多く読み、同い年の少年たちを置いてきぼりにしてきたので、自分にも耳年増になりたがる少女たちと同じ要素があると思っていた。それを絶対少女と呼び表わし、老若男女を問わず、人の心の胎内に配置する神聖なる内臓である、胎内童女なのだと熱っぽく考えたものだ。
耽美とは何か。
自らの内において陶酔することである。自らの外において陶酔する自分自身を想うことである。少年たちは気づかないまま、ヤルだけのオトナになってしまうが、少女たちは根本的に気づいている。それを私は言葉で形にして、少女たちの内臓から胎内童女を出してみせる。
ただ、気づくこと。自分が一体何に陶酔するか、陶酔する自分を美しく想えるか・・・
エロスの本質はそこにあると私は確信する。
肉体をいろどるコスメだけでなく、精神をいろどるコスメとして、これこれを読みなさいと、今日も私は少女たちが煩悩に激しく苦しまないように導く。
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