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2012年03月20日21:21

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「魔法少女まどか☆マギカ」は東映の香りがする。前編

これまで述べられてきたまどか☆マギカ論のなかでは、ユリイカに載っていた以下の稿が非常に興味深かった。

魔法少女と緋牡丹博徒

石田美紀

魔法少女というアウトロー

これまで魔法少女は皆、陽の当たる場所を歩いてきた。日本初の女児向けテレビアニメであり、記念すべき魔法少女もの第一作である「魔法使いサリー」(1966〜68)のような魔法使いの娘たち、すなわち「先天的」魔法少女も、「魔法の天使クリィミーマミ」(1983〜84)のようなある日魔法の力を得た人間の少女たち、すなわち「後天的」魔法少女も世間から抹殺されることなどなかった。それは、新房昭之が「魔法少女もの」の面白さを知ったという「魔法少女リリカルなのは」(2004)も同じである。戦闘能力として表現される魔法や、戦いのなかで育まれる少女たちの友情など、「魔法少女リリカルなのは」には「魔法少女まどか☆マギカ」との共通点が多く認められる。とはいえ、やはり「まどか☆マギカ」とは決定的に異なる。なのははもちろんのこと、母に利用された挙句に拒絶されるフェイトもまた、魔法少女であることになんら後ろめたさを感じていないからだ。社会――二人の戦いには公的機関「時空管理局」が介入する――も、彼女たち魔法少女の存在を認めている。
しかし、「まどか☆マギカ」の魔法少女は皆、裏街道を行く。マミは死んでも世間に気づいてもらえない。さやかは好きな男に顔向け出来ないと嘆く。杏子は家族を失った孤児であり、ほむらに至っては、大切な友人が魔法少女「だけ」にはならないように何度も時をやり直している。彼女たちを追い込むのは、彼女たちが願いをひとつ叶えて手にした魔法である。魔法少女になれば、魔女との戦闘効率を最優先して、魂と肉体は切り離されてしまう。さらには、彼女たちの未来は人知れず死ぬか、あるいは自分も絶望に取り込まれて魔女になるしかない。
 かくも陰惨な魔法はこれまでの「魔法少女もの」には登場しなかったはずである。「魔法の天使クリィミーマミ」の最終話が、小学生の優が魔法で変身する歌手クリィミーマミのファイナルコンサートであったように、「後天的」魔法少女たちは魔法と穏便に別れることが出来た。また、魔法使いの娘たちである「先天的」魔法少女たちは成長すれば魔女になる。だが、魔女になることは破滅を意味しない。「魔女っ子メグちゃん」(1974〜75)のように、魔女のなかの魔女たる魔界の女王を目指して修行に励む場合だってある。つまり、「魔法少女もの」に登場してきた魔法とはどこまでも白く、魔法が行使されることで世界は明るく、正しくならなければいけない。ジャンルを貫いてきたこの鉄則は、「魔法少女もの」が女児向けのジャンルとして生まれ、発展してきたことと無関係ではない。

任侠という想像力

 魔法を真っ黒に塗りつぶし、少女に裏街道を歩ませる「まどか☆マギカ」は、変格の「魔法少女もの」である。というのも、いわゆる深夜アニメであるこの作品は、子ども向けでないことはもちろんのこと、女性よりも男性を見据えて企画されており、その結構は「魔法少女もの」の外縁に位置するからである。実際、「まどか☆マギカ」には、「魔法少女もの」の外部にあった想像力が流れ込んでいる。脚本を担当した虚淵玄が「プロットラインとしては完全にヤクザもの」と語るとおりである。虚淵はデビュー作「Phantom-PHANTOM OF INFERNO-」(2000)から一貫して、裏社会を舞台に選び、暴力と欲望の箍が外れる様を中核として物語を紡いできた。だから、彼を脚本に迎えた以上「魔法少女もの」に似つかわしくない想像力が持ち込まれても、なんら不思議ではない。とはいえ、この発言が興味深いのは、続けて「少女をメインに置くことで任侠とはひと味違う物語を産み出せたなと思っています」と語っているからである。任侠とはひと味違う物語はどんな物語なのか。それを考えるために、まずは任侠ものの概略を確認しよう。
 侠客、博徒、渡世人。呼び名はいろいろあるが、要はヤクザ者を主人公にした物語が任侠である。それが任侠映画というジャンルとして日本映画に定着するのは、1963年に東映が製作した鶴田浩二主演・沢島忠監督「人生劇場 飛車角」からである。任侠映画の特徴は、義理と人情に忠実な男を主人公に捉えて渡世を描くことにある。折り目正しい男の生き様は、裏社会ならいっそう際立つというわけである。任侠映画は男を立てるためのジャンルであるため、女に与えられる役割はひどく限られている。もちろん主人公を愛する女は登場するが、彼が仁義を通して死地に赴くときには、女は男を見送る傍観者になる。主人公の傍らには、女の代わりに、主人公に共感し共に命を張る男がいる。たとえば、高倉健と池部良がコンビを組んだ「昭和残侠伝」シリーズ(1965〜72)のクライマックスでは、高倉と池部が女を蚊帳の外において、ふたりで道行を演じ、敵陣に乗り込んで血と汗を散らす。任侠映画の主人公になるには、女に惚れられるだけでは十分ではない。男に認められ、男に惚れられることが必要なのである。
 そのため、女性を主人公にして任侠映画をつくるのなら、男女の役割を入れ替えるだけで済むはずがない。任侠映画は男たちの絆を謳いあげるために、女を巧妙に排除するのだ。つまるところ、任侠映画とは、男性同性愛嫌悪(ホモフォビア)と女性嫌悪(ミソジニー)によって立つホモソーシャルな想像力の産物である。女のために男が副次的な位置に格下げされてはならない。それゆえ、虚淵も述べるとおり、任侠という地に魔法少女という図を置いたのなら、「任侠とはひと味違う物語」にならざるを得ないのである。

任侠ヒロイン「緋牡丹のお竜」(1967〜72)

 しかし、「まどか☆マギカ」の極めて近くに位置する任侠映画があった。それは、「まどか☆マギカ」の43年前に東映が始めた任侠映画「緋牡丹博徒」シリーズ(1968〜72)である。私の知るところでは、虚淵は女渡世人を主人公に捉えた「緋牡丹博徒」シリーズには言及していないのだが、虚淵には女ガンマンを主役に捉えた「悪女ピカレスク」『続・殺戮のジャンゴ 地獄の賞金首』(2007)がある。荒くれ者の女が牽引する点で、アダルトゲームにおいて異彩を放つ「続・殺戮のジャンゴ」の存在は、虚淵がジャンルの要請するジェンダーコードを反転させることに関心を持ち続けていることを示唆し、「緋牡丹博徒」と「まどか☆マギカ」の親和性に根拠を与えるだろう。
 とはいえ、脚本家の資質を別にしても、アウトローの魔法少女たちを語る際に娘盛りを渡世にかけたお竜を持ち出す理由は、ほかにもある。「緋牡丹博徒」シリーズも「まどか☆マギカ」と同じく、男性から熱烈な支持を得たからである。たしかに、男性向けの任侠映画のヒロインお竜が男性の支持を得たところである意味当たり前のことである。しかし、お竜の人気は、従来の日本映画において女性アクションが担ってきたスペクタクル的価値――すなわちエログロ――だけに根ざしていたわけではないことは特筆に値するのである。お竜はとにかく格好よかった。キップのよさ、立ち回りの安定感。高倉健らが演じる男の中の男と比べても彼女はまったく遜色ない。全共闘運動のさなかにピークを迎える任侠映画ではあるが、任侠のヒーローは、運動の闘士たちが自己を重ね、理想を仮託する存在であった。ゆえに、お竜が任侠映画の主役として人気を博したことは、男性観客が彼女に自らの理想を委ねてよいと考えたことを意味している。それは現在、「まどか☆マギカ」の魔法少女たちの命運について、多くの言葉が男性たちによって費やされていることを彷彿する。
 さらに続けると、実は女渡世人お竜は魔法少女と同じ時代、同じ場所で誕生している。お竜が登場する二年前、記念すべき魔法少女ものの第一作である「魔法使いサリー」を世に出したのは、東映の姉妹会社である東映動画であった。60年代後半に東映は、戦う女と魔法少女という極めて重要な人物類型を世に送り出していたのだが、当時はまだ、お竜と魔法少女が交わる余地などなかった。お竜は成人男性向け、魔法少女は女児向けの作品として峻別されていたからである。両者が邂逅するには、アニメがもはや子ども向けの媒体ではなくなり、「魔法少女もの」が男性にも定着するときまで持ち越されなければならなくなったのであるが、極論を述べれば、両者を融合させるために「まどか☆マギカ」は生まれたのかもしれない。
 このように、変格任侠映画「緋牡丹博徒」シリーズと変格「魔法少女もの」『まどか☆マギカ』は少なからずの因縁をもつ。では具体的に任侠ヒロインと魔法少女の造形はどうなっているのだろうか。以下、両者を往還しながらみていこう。

(後編に続く)

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言われてみれば、まどか☆マギカのキャラクターは藤純子、梶芽衣子、岩下志麻らに通じる“性格”、“キャラ立ち”が確かにありますよね。
そして浅草の三本立ての映画館にて「お竜さ〜ん!!」と叫ぶジジイと、コミケ会場にてまどマギのコスプレを熱心に撮りまくるあんちゃんの相似性。

なるほど〜、と唸った稿です。
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