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2011年11月26日20:59

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連続幼女誘拐殺人事件を書く前に、識者たちの憶測というもの。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%BB%E5%9F%BC%E7%8E%89%E9%80%A3%E7%B6%9A%E5%B9%BC%E5%A5%B3%E8%AA%98%E6%8B%90%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

いわゆる「宮崎勤事件」として知られる、連続幼女誘拐殺人事件。
これほど世間とメディアがヒステリックになり、狂奔した事件はなく、私自身も父親から「宮崎みたいになるなよ」と挑発されて病院騒ぎになるくらい殴り合いのケンカになった。

犯人が逮捕された当時(1989年7月23日)、私はちょうど二十歳になったばかりだった。ある事情があって都内の病院に入院していた。ベッドの上で腹の切り傷の痒みをぼりぼり掻きながら、数社の新聞、雑誌を取り寄せて、目にとまった記事を切り抜いていた。

森村誠一(作家)

物質文明が爛熟し、一億総中流となる中、この“平均バス”に乗り損ね、社会にとけこめない人間が鬱積した不満を無抵抗な幼児に向けた犯罪だろう。極めて現代的な殺人事件だ。自閉的で女性に声もかけられない。そのくせ性的欲求が強く、職場や学校で受け入れられない中年以下の男性という犯人像が思い浮かぶ。
(毎日新聞 1988年12月16日付)

山村美紗(推理作家)

犯人像としては、四十歳前後の男で、運転ができ、経済的には中以上。見た目には、割と普通だが、ロリコン(少女趣味)のうえ、性的に屈折しているとみられる。事件は、平日に起きていることから、仕事を朝晩きっちりやるサラリーマンではなく、営業マンや設計技師など比較的、就業時間が個人の自由裁量に任されている職業についていると推測できる。真理ちゃん事件で「今田勇子」と名乗る差出人の手紙からは、陰に女性がいることも感じとれる。その場合には、夫婦の共謀で、2人でキズをなめあいながら生活しているように思われる。
(産経新聞 1989年6月13日付)

山元泰生(ルポライター)

宮崎が綾子ちゃんの頭に執着していたことで、ある捜査関係者が“「サロメ」を読めばよくわかるよ”とヒントを教えてくれた。「サロメ」は生首にこだわる物語で、頭を持ち帰ってしばらく隠し持っていたのは「サロメ」をヒントにした可能性があります。
(東京スポーツ 1989年8月27日付)

小倉千加子(心理学者)

宮崎勤のあの長髪って、何なんだろう?今から二十年前には、まわりに長髪の男の人がいっぱいいて、それが反体制のシンボルだったものだ。いつの頃だったろうか、長髪の男の人がいなくなって、短い髪が当たり前になっていた。
訳知り顔の人に言わせれば、長髪の衰退とDCブランドの台頭が時を同じくして起こり、以後、男のファッション化は急速に進んだということだ。
だから、今さら長髪している宮崎勤が男たちの中で占めるポジションって、すごく面白いと思う。だって、あの宮崎が反体制しているとは思えないから。
彼の長髪は、別にイデオロギーの産物ではなくて、既成の男の在り方のどれにもコミットメントできなかったことの象徴だと思う。それで、髪の毛もどんな風にしていいのかわからなかったのだ。聞くところによると、アニメ・マニアの中には、長髪の男の子がとっても多いそうだ。おまけに、女性週刊誌には、「アニメ・マニア特有の青と白の太い横縞のポロシャツに縦長のショルダーバッグ」なんて書かれている。
彼らはDCブランドとは無縁で、かといってビジネス・スーツにも腕を通したことがない。髪型であれ服装であれ、自分でデザインすることには、決断力がいる。大人の女と付き合うには、たとえハッタリであっても、決断力がいる。
宮崎勤は、女を「見る」だけでなく、女に「見られる」視線のキャッチボール、相互的な人間関係を作り出す能力に決定的に欠けていた。彼は、自分を決して「見返す」ことのない幼女を自己の快楽の対象として選ぶことで、ダサイ自分自身の姿を直視することから逃げたのだ。
男らしさを強制する社会は、さまざまな性犯罪の温床だ。宮崎勤は、「仕事の出来るビジネススーツ」と「遊び上手なDCブランド」の使い分けのノウハウを学びそこね、その断層に落ち込んだ不器用な男たちの一人なのである。
(朝日新聞 1989年9月2日付)

佐川一政

僕の事件の報道のされ方一番強く感じられたのは被害者と加害者の属する世界を峻別し、加害者、つまり僕・・・は“人非人”として対岸へ追いやる、というやり方でした。その場合には、あくまで特殊なケースとして、比較的単純に解決出来たのではないでしょうか。
今回の場合も、“人非人”として容疑者を血祭りにあげることには変わりませんが、どうもそう簡単には対岸に追いやるわけにはいかない、ビデオを積み上げられた彼の部屋の情景は、俺の友人のところでもみたぞ、という様な、薄気味悪さがついてまわっているのではないでしょうか。
自分の属する世界と、容疑者の属する世界との境界線の判別が定かでないということです。その点で、僕の事件の様にはスペクタクル化出来ない、観客として安心してみていられないところがあり、次々にあらわれるおぞましい物証や事実を報道する筆にも、あるとまどいの如きものを感じるのです。
それだけ今回の事件が、社会的な意味を持っている、ということになるのでしょう。その点で大いに論じられるべき側面はあると思います。
(テーミス 1989年9月6日付)

唐十郎(劇作家)

宮崎君への手紙

きみが感化されただろうもの、また、きみに感化されるだろうものをまとめて封じ込めるこのやり口は、今にはじまったことではないが、その消毒作用がすすむほど、きみの姿が意味不明になり、それだけに肥大してくる。
とりわけ頭を抱えているのは、「今田勇子」というオバタリアンの登場だ。
これを分身にしたというが、本当かよという気がぼくにもないわけではない。
元文学少女風の「今田勇子」に、きみの視点を譲り渡し、たらたら、たらたら、ガマの油に似たおしゃべりを述べているところなど、きみが、ヒューヒュー、ポーポーをかわいいと書いた辞典とは、ずいぶんかけ離れ、きみの告白症が、なんでもかんでも引き受けた矛盾ではないかと思ってしまうのだ。
テレビで、いろんな人がきみを解く。概ね二つに割れ、一つは、きみの猟奇性の因果律を解こうとする者らであり、もう一つはきみを状況の鏡としてみようとするものだ。解釈し過ぎるな、事実をみろという評者は、きみの告白文と称するところのものを、江戸川乱歩の借用であり、借用に常通している故に、きみは曲者だと結論しました。そんな結論が果たして事実でしょうか。
ぼくとしては、きみは当初、さまよえる乳母であったろうという喩えしか援用出来ません。そして、乳母が、預かった赤子を、愛でるのみならず、時には溺れさせることもあるとも思っています。ルイス・キャロルという作家も少女たちの乳母であり、カメラマンでもありましたが、うさぎ穴に落ちた少女アリスをイメージの反転旅に赴かせながら、突然、インクの海に溺れさせもします。このインクは、キャロルが書いているペン先から溢れるものであり、まさに愛でていた筈のものは、こうした枷を加え得るのです。が、アリスは終わりに姉のひざ枕で目を覚まします。こうして読者もアリスと一緒にホッとしたりするのですが、溺れさせたキャロルは、どう思ったでありましょうか。
では、きみの少女は、どこで目を覚ますのかと、きみと、きみを報道している現実とやらに話を戻すと、その少女は「今田勇子」のひざ枕で、まだ眠っているということになるのでしょうか。と聞いても、こんなことに答えが出るとは思いません。
ただ、こうとなっても、ヴィデオ狂の独白青年と、さまよえる乳母たちに、明日はないものかと願うばかりです。
(週刊朝日 1989年9月1日号)

野坂昭如(作家)

彼の部屋は「ビデオの王国」で、彼はその支配者だったのだろう。ビデオは与えられるだけで一方的なもの。彼は生きている人間とビデオの世界との区別がつかなくなっているのではないか。ビデオを通してしか人間を認識できず、現実社会に出れば大人は恐怖の対象であり、相手にできるのは幼い子供しかなかったのだと思う。逮捕された今も、ビデオの主人公を演じているビデオの囚人とも言える。これまでの精神分析学などでは理論付けすることのできない人格なのだろう。
(東京新聞 1989年8月15日付)

日野日出志(漫画家)

あれは完全なフィクションですよ。普通は私たち作り手とビデオを見る受け手の間には、これは作り物であるというルールがあるんですけどねェ。ただ、今の報道を見ていると、自分たちは善で、宮崎は悪だときめつけている感じですよね。確かに残忍な殺害を犯した宮崎は、糾弾されて当然です。
ただ、我々の内にも、宮崎と同じような、攻撃性、残忍性、性的なサディズムはあるんです。子供の頃、虫やカエルなんかを平気で殺してしまったことなんかあるでしょう。だけど、それが、成長していく過程において、どこかに閉じ込められてしまい、もうしなくなるでしょう。宮崎の場合、それが出来なかった。おそらく、成長の過程で人間関係がうまくいかなかったんでしょう。それで、なんとかして、攻撃性や残忍性を埋めようとして、ビデオに走ったのかなァ−。そうだとすれば、あまりに異常です。他のホラーファンは迷惑してますよ。
(週刊ポスト 1989年9月1日号)

つかこうへい(作家)

性的な成熟がないから、なかなか女性に声がかけられない。女が怖い。でも、それなら、身近な優しい男に声をかけて、おかまにでもなってくれたらいい。幼女にいくことはない。それとも、近頃のおかまは女以上にタチが悪いのかな。
(中央公論 1989年10月号)

立川談志(落語家)

あの男はマンガとビデオが趣味で、仕事もろくすっぽしていなかったらしいが、今回の事件は生まれて初めて自分の手でものごとを成し遂げた行為だったんだろう。それも親の手を借りずに成し遂げたんだ。
「どうだ!」とばかりに、被害者の家へ遺骨を送りつける神経なんざあ、子供を殺して後悔をしている人間が出来ることじゃない。
今の宮崎の心理にも、罪悪感による後悔はないね。アイツにあるのは、犯罪が挫折して捕まってしまったことになる後悔、失敗感ばかりなのだと思うよ。
宮崎の態度に反省のカケラもないというが、本人にすれば不思議でもなんでもないんだ。善悪の分別があって、やってはいけないことを、たまらずやってしまったという犯罪ではないんだからね。
それにしても、今の報道ぶりはまさしく一億総噪状態。ジャンボ機が墜落したのなら、「飛行機は危ない」ということを訴えるのだろうから仕方ないだろう。
しかし、今度の事件を新聞、テレビが連日大騒ぎするのは何を訴えたいからなんだ?「ビデオマニアに気をつけろ」なのか、それとも「26歳ぐらいの若者は危ない」なのか?
レポーターがしかめっ面で「宮崎を許せない」と連呼するぐらいなら、みんなで宮崎をドスで突いてみろよ。犯人に対して恨み言をいいたいのは被害者の家族なんだよ。
また、報道を食い入るように視聴者が見ているのもゲスののぞき趣味だ。みんな宮崎と同じ了見を持っているから、夢中になって見ているんだよ。
オレは宮崎なんかと同じ了見を持ってないから、もうニュースなんて見ていないよ。
(週刊現代 1989年9月2日号)

永六輔(放送タレント)

寄ってたかって宮崎の人物論をやっているが、「こんなことをするやつは人間じゃない!」という発言が多い。
宮崎も人間だから怖いので、その視点がないと何の意味もない。「宮崎だって人間だ!」そういう特集番組がないのがおかしい。
単純にホラー映画を取り締まる動きがあるのはさらに危険だ。
各局が先を争って自粛する方針を打ち出し、現実に放送中止が続いている。
宮崎を取り締まるならともかく、テレビで放送出来るようなホラー映画は問題ではない。
テレビがオッチョコチョイであることを示すだけの処置である。
ホラー映画よりも、小学校、中学校の授業でカエルの解剖をして、バラバラにしてしまう方が怖いという人だっているのだ。
(東京新聞 1989年8月12日付)

・・・・・・

まだまだあるのだが(特に泉麻人さんが宮崎の間違ったオタク知識を指摘して、本物のオタクではないと述べているのは笑った)、こうしたコメントの数々を眺めていると、かえって宮崎勤像が明確に浮かび上がってくる。

メディアが吸い取った、宮崎勤のバックアップ、その姿を私は丁寧になぞって、人間の悲劇そのものを描いてみたい。


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