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2011年10月25日21:28

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オリジナル小説 「薔薇色の海豚」(書きかけ)

その日で三日目だった。目の前には大海のごときアマゾン河のコーヒー牛乳色のさざ波が広がっている。端っこにはジャングルはおろか、岸だって見えない。あるのは白く輝く空だけだ。私は自分が乗っているエンジンつきのカヌーが河を木葉のように軽く滑っていくのを、緩やかに消えていく航跡を眺めながら、それとなく感じ取っていた。舳先には双眼鏡を持った相棒のカルロスがいる。彼は先程から水面に神経を集中していた。さざ波が弾ける度に、彼の頬の肉がピクッと震える。私はいつでも撃てるように、スコープつきの口径の大きいライフルを肩にかけている。
 「ここらへんだ。停めよう」
 カルロスがそう言うので、私はエンジンを停めた。カヌーは惰性でしばらく滑っていたが、ゆっくりと速度を緩めていった。私はライフルを抱えたまま、艫に繋いだ針金を引っ張った。その先には、河の色に染まったシャツが結んである・・・私の父のシャツだ。
 「匂いを嗅ぎつけて、もうそろそろやってくるだろう」
 カルロスが双眼鏡に目を当てたまま言った。
 私はバランスを取りながら、カヌーの上に仁王立ちになった。私の着ている作業用シャツ、作業用ズボンは日本から持ってきたものではない。ここで長年コーヒー農園を営んできた父が使っていたものだ。陳腐な言い方で言えば、まさしく父の血と汗と涙が染み込んだ代物だ。私はそれを着込んで・・・父のふりをしているのだ。
 「来た!」
 カルロスが双眼鏡から目を離し、「あそこだ!」と左手の方を指さした。そっちの方へ私はライフルを向けた。スコープに目を当てる。スコープの中の河は大きくて非現実的に見えて、どこか別の世界を覗き込んでいるようだった。だしぬけにそいつの姿が目に入った。そいつは目の醒めるような薔薇色をしていた。水の中から顔を出しているそいつは、まるで海坊主のように見えた。と、そいつの頭のてっぺんから水が・・・潮が勢いよくブシュッと噴き上がった。
 「やつだ・・・やつが、あんたの親父さんを殺した魔神だ。あの畜生の、牝海豚がだ!」
 スコープの中で、その薔薇色の牝海豚は、真正面から私の方をジッと見つめていた。その目つき!何というのか・・・名状しがたい欲望に濡れそぼった魔性の目つきだった。何よりも、海豚のくせに、人間くさい目つきが私を喘がせた。それで十分だった・・・あの牝海豚が父を破滅に追い込んだという荒唐無稽な話を信じるには。
 私は牝海豚の顔の真ん中に照準を合わせると、人差し指もちぎれよとばかりに、続けざまに引き金を引き搾った。カヌーを中心に高めの波紋が出来る。スコープの中の魔物は頭を見事に吹っ飛ばされ、回りの水を赤く染めて、その中に潜り込んでしまった。
 「やった・・・神よ、二度とあんなのと巡り会うことがありませんように!」
 カルロスが重々しく祈りの言葉を唱えて、胸の上で十字を切った。
 それから、カヌーを牝海豚を仕留めた辺りに近づけたが、その時には牝海豚の死骸は赤い水の中に浮かび上がってきていた。
 間近で改めて見ると、全く見事なまでに薔薇色をした牝海豚であることにしばし言葉を失った。鮮血に染まった薔薇色はますます薔薇色を濃くしていき、死してなお、その魔性のものは私の心を搦め手で捕らえようとするかのようだった。
 私は頭を強く振り、ライフルの銃口を牝海豚の耳の辺りにくっつけると、一発撃ち込んだ。それから、私たちは二人掛かりで、死骸をカヌーに引っ張り上げた。白く輝く太陽の下で、薔薇色の牝海豚のつるつるした肢体がなまめかしく光り輝いた。突然、カルロスが河に向かって激しく嘔吐した。
 「あれ・・・あれを見てくれ!」
 カルロスが震える指を突き出す。その先へ視線を移すと、そこには牝海豚のぱっくり割れた性器があった。まだヒクヒクと蠢いている。その動きは鮑そっくりだった。おまけに、白く濁った粘液が端から滴り落ちている。
 「あの畜生め、何てこった・・・」
 私の脳裏には、急速に父が語った伝説が蘇りつつあった。その伝説とは、古来より漁師の間で言い交わされてきた『天上の花陰』より始まる。つまり、雌のエイの性器は人間のそれにそっくりで、なおかつ、それと交わると人間以上の快感をもたらすというやつだ。それがアマゾンになると、エイに代わって海豚が最高とされる。しかも、現地では古くから海豚は恐るべき好色の精力絶倫の魔神とされていて、夜になると牡は白い服を着たハンサムな若者に化け、陸に上がって処女を誘惑するという。牝も同様だけれども、一般の白っぽい海豚よりも、濃いピンク色、薔薇色をした牝は特に危険とされている。凶暴だから危険なのか、執念深く人間の男を追い回すから危険なのか、地域によってまちまちだが、とにかく薔薇色の牝は危険なのだとされている。こうした魔物めいた海豚を避けるには、カヌーの艫にニンニクなどを擦り込んでおくといいと言われているが、もっと手っ取り早い手段、ライフルなどの武器で殺す手段には、原住民はとんでもないと尻込みをしてしまう。それは海豚を殺すと必ず崇りがあると恐れているためだ。
 「日本でも、沼の主とか呼ばれているものを殺すと崇りを受けるとされているんだ」
 「ヌシって何だい?」
 「ところによって色々だけどな・・・大蛇だったり、大魚だったり、牛蛙だったり・・・」
 カルロスの顔色がよくなったのを見ると、私はにやりと して見せた。
 「でも、あんたは大丈夫さ。こいつは特別、性悪なやつだったからな。天に代わってあんたが罰を下してやったんだ。こいつに誘い込まれて溺れ死んだのなんか、おれが覚えてるだけでも三十はくだらねえ」
 「ありがとうよ、カルロス・・・」
 私はそれまでしっかりと抱きかかえていたライフルを舟底に置くと、後ろ手で熱くなったエンジンを撫でた。横目で牝海豚の死骸を眺める。
 濁りはじめた黒い瞳が見返す。私はその中に何かを見ようとして覗き込んだが、すぐに目を離した。
 「カルロス。親父がこいつに殺されたなんて、おれが本当に信じると思ってるのか?」
 「こいつに殺されたのでなきゃあ、一体何だと思ってんだ?」
 「それはまだ分からん。だが、考えてもみろ、おれが日本に帰ってだな、親戚や何かにどう説明するんだ?僕の父は海豚に殺されましたって言うのか?ガキの方がもっともらしいのを考えるぜ」
 「だけどよ、本当なんだから仕方ねえぜ。でなけりゃ、お役人さんや何かにゃ、『事故死』って言やいいよ。原因はって聞かれたら、河で遊泳中に溺死とでも答えたらいい」
 それから、私たちはお互いムッツリ黙り込んだまま、マナウスの牧場へ帰った。牝海豚の死骸は、私のアイディアで日本式に見せしめとさらし首の意味を込めて、トラックの荷台にくくりつけて街中をしばらく走り回っておいた。子供たちは珍しいものに目がないから、後を追いかけてきたりしたけれども、大人や特に老人は息を呑んで素早く十字を切っていた。
 私は思わず笑った・・・老人たちの十字の切り方や荷台の死骸に対する目つきが、いかにも怪奇映画っぽくて堂に入っていたからだ。

 その夜、棺の中に入っている父を改めて見た。二十歳前後に私をこの世に送り出し、四十七歳の若さで死んだ父。父に対する記憶といえば、子供の頃抱き上げられて馬に乗せられたりとか、ライフルの射ち方を教えてくれたりとか、途切れ途切れのものしかない。しかもバラバラだ。それもそうだ・・・五年にいっぺん会えばいい方で、そこらへんのマイホームパパのように毎日顔をつきあわせているわけじゃなかったからだ。それなのに、死んだとなると、父は急速に私の前に大きく立ちはだかり、色々な形で私と語り合う。葬式などの儀式、遺産相続、様々な法的手続き・・・おまけに化け物退治まで用意してくれているときた。
 そこへ、カルロスの父、ルイスが現れた。私にとっては、父のコーヒー農園と牧場の共同経営者としか映らないが、向こうは私をカルロスと同じように実の息子として扱ってくれる。
 「父上はまことに残念じゃった。しかし、これも運命なのじゃろうて。あの人は何かしら運命的なところがあったからの」
 父と一つか二つしか違わないのに、喋り方が時代めいているのは、軍人でワーグナーびいきだったルイスの父の影響だといわれている。
 「それゆえに、土地の者は『あん人は河の魔神に連れて行かれなすった』と言うておる。わしは肯定もしなければ否定もせん。ハッキリとは言いかねるところがあるのじゃ・・・ここはおまえさんの好きなヘルツォークも映画の中で言うておるように、神秘がそのまま生きておるところじゃからな。実際わしも、しばしば説明のつかぬ出来事に遭遇しておる。・・・ところで、御遺体は焼くのかね?それとも冷凍して持ち帰るかね?」
 私は冷凍の方を選んで、ルイスに牝海豚を出来れば剥製にしたいのですがと持ちかけた。ルイスは父や自分が狩ってきたピューマなどをよく剥製にしていたのだ。その剥製の出来具合は芸術的で、ジョークのつもりなのだろうが、ナチスの医師に教わったからなと照れてみせたことがある。
 ルイスは一瞬、何ともいえない目つきをした。
 「剥製?殺しただけでは気がすまんのかね?」
 「いや、見事な薔薇色なんで、このまま腐らすには惜しいかなと・・・」
 「なるほどな。わしもあの噂がなければ、そうしたいところじゃよ。あれだけの海豚はそう見られるものではないからな」
 「噂?一体何ですか?」
 私が聞くと、ルイスは本当に困ったような顔をした。思わせぶりに噂と口走ったことを呪っているらしく、口の中で自分に向けてブツブツ悪態をついた。それから思い切ったように、私に顔を向けると重苦しい声で言った。
 「あの牝海豚には子供がおるのじゃ。女の子でな・・・」そこでルイスは顔を歪めた。「父上との間に出来た娘なんじゃよ」
 その瞬間、世界が現実から一気に非現実的なものに変わっていくような目眩がした。自分が何か、どこかのファンタスティックな映画に出演しているのだという気さえした。ルイスは続けた。
 「考えるもおぞましいことじゃが、土地の者は皆、その合いの子が母の仇とおまえさんをつけ狙っていると噂しておるのじゃ。だから、剥製なんかにしたら、噂の内容がますますとんでもないものになるのが目に見えてるのでな・・・」
 とにかく、私たちはその後、遺体搬送の手配を済ませて、遅い夕食を取りながら共同経営の法的手続きなどに ついて話し合った。その間、剥製の話はいっぺんたりとも出なかった。

 白く光り輝く太陽の下、私は大海のごときアマゾン河のど真ん中にいた。カヌーの上に座っている。向かい側には少女が座っている。こんな土地なのに、いやに色の白い肌をしている。
 「おまえは誰だ?」
 「ミランダ」
 「ミランダ・・・何だ?名字は?」
 「ただミランダっていうの」
 「親は?パパイとママイは?」
 「分かりきったこと聞かないで」
 そう言って、白子のような少女は悪戯っぽく笑った。ふと、空を何かが走ったので、見上げると一羽のカモメが飛び回っていた。その出現に、私は何かしら不吉なものでも見たかのように、日本なら鴉でも見たかのように顔を歪めた。そして、突然、カモメの持つ重大な意味に気がついて愕然とした。あの鳥は海に近いところにしかいないのだ。ということは、このカヌーはマナウスから流されて、はるか離れたベレン港まで来ているのだろうか?大西洋が目と鼻と先の・・・。
 その時、唐突に周囲の水が弾けたので、私は思わず首を縮めた。巨大な魚が跳びはねたのだった。また一匹、水中から躍り上がる。よく見ると、それは海豚だった。 何匹か群れをなして、カヌーと平行して泳いでいる。私はゾッとした。慌てて、ライフルはないかと辺りを見回した。しかしライフルはなかった。ナイフも山刀もなかった。武器になりそうなものは、オール一本さえもなかった。私は喘いだ・・・少女は相変わらず、悪戯っぽい笑いを浮かべて私を見つめている。
 「何をそんなに怯えてるの、お兄ちゃん?」
 その言葉の持つ魔力に、私は名状しがたい恐怖に打ちのめされて・・・思わず絶叫した。

 目覚めてみると、全身汗びっしょりだった。しっとり濡れたような色の木の壁が目の前に迫ってきている。ホーッと長い溜め息をつくと、ベッドの傍らにカルロスとその妻イライザが立っているのにギョッとした。カルロスは手にしている蝋燭をテーブルの上に置くと、「大丈夫か?」と声をかけてきた。イライザが水の入ったコップを差し出す。私はそれを受け取って、一気に呑み干した。 「親父は心配してる・・・ガウチョ(牧童)たちもだ・・・あんたの悲鳴は牧場はおろか、コーヒー農園全体にまで響き渡ったようだぜ」
 「ルイスの話・・・あの噂は本当なのか?カルロス、おまえはどうだ?信じてるのか?」
 「もちろん信じてるよ・・・だが、あんたは誰も殺せない魔神を仕留めた力を持つサムライさ。もう一匹もどうってことないよ」
 「だが、その牝海豚は、おれの親父との合いの子なんだ・・・おれの妹に当たるんだぞ!」
 そこで、私はヒステリックな笑い声を漏らした。
 「ルイスが本気でそう言ってるのならだ」
 「親父は冗談がおそろしく下手くそだ。ラテン系に似合わない堅物だからな。真っ正直なことしか口にしねえ」
 「なあ・・・こんなこと、信じられるか?」
 私がそうぼやくと、外で低く籠った銃声が数発響いた。イライザがさっと顔色を変え、私とカルロスは反射的に身体を翻した。
 「薔薇色の海豚だ!」
 誰かが恐怖のこもった声でそう叫んだ。私はカルロスと顔を見合わせると、すぐに拳銃とライフルをベッドの下から引っ張り出した。
 「何だ・・・おい、エルマー、ライトをつけろ!!」
 しばらくして、低くバチバチ火花の散る音がして、牧場全体にライトの矢が縦横無尽に走った。私の父がルイスと協力して、家畜泥棒除けに野球グラウンドのナイター用ライトを導入してセッティングしたものだ。
 「あそこだ、何かがいる!」
 「待て、バカ、射つな!!ありゃ人間だ!」
 ガウチョたちの喚き声が響く中、ライトの真っ只中に飛び込んだ私は全身が痙攣するような代物を見た・・・白く輝くライトに照らされて、さらに白く輝く肌をした少女がそこに立っていたのだ・・・青々とした芝を裸足で踏 みしめ、ピンク色のドレスを着て、目眩くような白い肌を露にし、白っぽい髪をたなびかせ、そして夢の中と同じように悪戯っぽい笑みを浮かべて、少女は神話的な女神のごとく立っていた。
 私は全身から力が抜けていくのを感じながら、必死に声を振り絞って絶叫した。
 「射!!構わん・・・射ち殺せ!あれは人間じゃな!!」
 私の叫びに誰も反応しないのを見ると、私は震える手でライフルを構えようとした。
 「よせ、あれは人間だ!殺人罪になるぞ・・・!!」
 カルロスが私に飛びかかろうとしたが、必死の制止は必要なかった。私の指は引き金にかかったまま、ピクリとも動かなくなってしまったのだ。銃口もダラリと地面に下がってしまった。
 少女はケタケタと甲高い声で笑うと、さっとライトの矢の及ばないところ・・・闇の中へ走り去ってしまった。私は追いたかったが、誰も後を追おうとせず、ただ呆然として突っ立っているだけだったので、その態度に呑まれてしまって身動きが取れなかった。
 そこへ、ルイスが青い顔をして現れた。手には蛍光灯のカンテラを持っている。その灯のおかげで、青い顔がさらに青白く見えて、さながら幽霊のような印象を与えた。
 「諸君・・・」
 声が震えている。
 「死骸が・・・薔薇色の牝海豚の死骸がなくなっておる」

 父の遺体搬送の日、空は珍しく激しい雷雨という悪天候だった。最初はセスナ機で都会の大空港まで運ぶ計画だったが、急遽、河に沿って三百五十キロ下った地点にあるマットグロッソ州軍基地まで船で運ぶことになった。今度はそこからジェット機で大空港まで行くわけだ。それなら、二日のズレが生じるけれども、早いうちに日本に帰れる。
 いよいよ出発という時、私の目に映る光景はさながら聖書のノアの箱船の様相を帯びていた。激しく叩きつけてくる大粒の雨。大音響とともに白く炸裂する雷。それでも偉大なるアマゾン河は怒り狂っていない。水かさもあまり変わらない。それだけ広大でどっしりしているということだ。アマゾン河が怒り狂う時はただ一つ、ポロロッカ(大逆流)の時だけである。
 船は軍用モーターボートで、一時的だが時速二百キロ以上出せるという代物だった。船室に父の遺体を納めた棺を入れると、私は私以外のクルーを見た。カルロス。ガウチョ頭のエルマー。船長を務める州軍のローム少尉。その部下が二人。私も入れると六人だ。
 「船長。君は迷信深い方かね?」
 ルイスがローム少尉と握手しながらそう言った。
 「いいえ、セニョール」
 ローム少尉は簡潔に、ただそう言った。
 「河の海豚を殺せるかね?」
 「必要とあらば」
 私はこの簡潔な応答が全く気に入って、この軍人なら生命を預けても安心だという快い気持ちがムクムクわいてきた。
 「実は、こちらが・・・」と、ルイスは私を手で示し、「薔薇色をした牝海豚につけ狙われておる。よくよく気をつけて警護してほしい」と厳かに言った。
 「かしこまりました」
 そう言いながら、ローム少尉は私とも握手した。その手は力強く、不屈の闘志をひしひしと感じさせられた。
 最後に、ルイスは私を優しく包むように抱きしめた。
 「君はわしの息子じゃ。気をつけてな」
 「ありがとう、ルイス。また連絡しますよ」

 出だしは順調だった。激烈を極める雷雨の中でも、多少不明瞭ながらラジオと無線機は聞こえたし、河も少しの抵抗もなく我々の船を滑らせてくれていた。私はイライザが作ってくれた握り飯を食べていた。ルイスたちは皆ローストビーフだった。
 「日本人は・・・肉をどのくらい食うんかね?」
 エルマーが聞いてきた。
 「今は、欧米人並に食うよ。だから最近のガキは体格的に欧米人並になってきている。おれはたまにしか食わない。もっぱら魚でね」
 「日本人は・・・魚をナマで食うんだってな」
 「ああ。刺し身とか寿司とか」
 「海豚も食うのかい?」
 「海豚は魚じゃないぜ。哺乳類だ。そして、海豚はとても食えたもんじゃないって話だ。不味くってな」
 雷雨はますます激しくなり、とうとうラジオと無線機が使用不可能になった。後は高性能レーダーに頼るのみだ。とにかく下って行けばいい・・・。

 白く光り輝く太陽の下、濃い緑色のジャングルを掻き分けて行くと、突如として目が溢れ返る水の中に吸い込まれてしまう。目の前には大いなるアマゾン河が広がっている。岸に麦藁帽子を被った父が立っている。上半身裸で、逞しく張った胸板は真っ黒に黒光りしている。粘り気のある真っ白な唾をガムのように噛みながら、父はニヤニヤ笑って勢いよく河に向かってペッと唾を飛ばす。すると、水族館のショウのように海豚がサッと岸にやってくる。見事なまでに薔薇色をした牝海豚だ・・・嬉しそうに、しきりにグーグー鳴いている。海豚の前で、父は洗いざらしのバミューダパンツを脱ぐ。尻も真っ黒に日焼けしている。岸の方に目をやると、海豚の姿が消えている。代わりに、ピンク色のドレスに身を包んだ白い肌の女が立っている。ゾッとするほど透き通った美しさだ・・・彼女がドレスを脱ぐと、目が醒めるような白い裸身 が流れていく。父が彼女を抱きしめると、女の肌が火照り、ゆっくりと薔薇色に染まっていく。それから、二人は岸に倒れ込み、激しく絡み合っていく・・・。
 「だめだ、親父、そいつから離れろ!そいつは人間じゃない!!」
 私はたまらなくなって絶叫する。すると、女の白い肌から顔を離した父がこちらを振り返り、恐ろしい笑い声をあげる。
 「まだそんな小さいことを言ってるのか。そんなことでは、おまえは死ぬまでおれを越えられんぞ・・・息子よ」
 いきなり、船が勢いよく傾き、後頭部を壁に激しくぶつけた私は居眠りから目覚めた。見ると、目の前のカルロスとエルマーの顔が真っ青になっている。二人とも窓にへばりついて、しきりに喚き合っている。運転室の三人の軍人は、それぞれウンともスンとも言わない無線機に向かって叫んでいる。一体何事が起こったのだろうか?
 空気を吸い込むと、たちまち鼻や口に水が溜まる。目を大きく見開いた私は唾を吐きながら、外を見た・・・それで理解した・・・すごく湿り気のある濃霧が船を取り巻いているのだった・・・右も左も分からない・・・前も後ろもだ・・・視界が全くきかないと、奇妙な感覚が私の身体の底からわき上がってくる。進んでるとも、退いてるともつかぬ感覚だ。東京で居眠りしながら電車や車に乗っている時、しばしば味わったあの感覚だ。私はフラフラ とデッキに出た。ミルクのようなぬるぬるした世界・・・そして、私はそこに信じられないものを見た・・・。神話の世界から抜け出てきたような、半魚人どもの大群が水面に浮かび上がっているのだ。全身藍色の恐ろしげな鱗だらけの男の怪物もいれば、透き通るような肌をした美しい女の妖怪もいる・・・まだ夢を見ているのだろうか? 「神さま!もう終わりだ!!」
 エルマーが泣き声でそう言うのが聞こえる・・・カルロスは窓にへばりついたまま、何かをブツブツ呟いている・・・ローム少尉は二人の部下とともに無線機を取り囲んだままだ・・・私は棺の横に置いたライフルを引っ張り出し、怪物どもに向かって威嚇するようにボルトを引いてみせた。金属的な音はさすがに耳慣れないものらしく、奴らの注意を集めたようだ・・・奴らの視線が一斉にこちらに集まる・・・いきなり銃声が轟き、私はビクッとする・・・無意識に引き金を引いたらしく、銃口が反動で跳ね上がっていた・・・もしかすると、私は取り返しのつかないことをしたのだろうか?
 「ああ、見ろ!奴らがやって来る!!」
 エルマーが上ずった声を出す・・・ミルクのような空気が冷え込み、何とも名状しがたい妖気が周囲に溢れ返る・・・濃霧が巨大な怪物のように身動きし、その中を無数の半魚人どもの影が流れてくる・・・こっちに向かって・・・私は心臓を冷たい手で鷲掴みにされる感触を味わって・・・思いっきり悲鳴を上げた。
 「ミランダ!」
 思わずその名を絶叫した私は、自分の悲鳴にギクリとしてしまった。その瞬間、私は背後から何かゴツゴツしたものが覆い被さってきたのを感じた。それが痛いほどギュッと肩と胴を締めつけてくる。
 「硬いだろう?」
 そいつが囁くような声で言った。私はあまりのショックに全身が麻痺していくのを覚えた・・・私の目の下の胸には白く強ばった人間の腕が絡みついている。その逞しい腕には見覚えがありすぎた・・・。
 「親父!!」
 私は喘ぎながら、死人の腕に手をかけた。ガッチリと締めつけていて、爪さえも隙間に入らないほどだ。
 「どうだ、硬いだろう?」
 私のうなじに死人が冷たい唇を押しつけて、低く籠った声で囁いてくる。私はそいつを背中にへばりつかせたまま、勢いよく船内を振り返った。そこにはカルロスとエルマーの長々と伸びた姿があり、そして・・・恐ろしいことに、大きく蓋の開いた棺が転がっていた!
 「止めてくれ!親父!!」
 「硬いだろう、こんなに?」
 「畜生、化けやがって・・・おとなしくくたばってろ!」
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