ボイスに書いた、祈祷師の叔母たちが行う“口寄せ”を分かりやすくヴィジュアル化すると、映画「死国」のオープニングの感じになる。
実際はこんなに仰々しいものではなく、依童役の子供を真ん中に、祈祷師たちが円を作ってぐるりと囲み、聞き役が背中をさすり、または叩きながら、子供の口から漏れるかすれ声、ささやき声、うめき声などを聞き出すのである。
こういうシステムで、宮城からの依頼は果たせるのであろうか?
何しろ一万人近く津波で海の彼方へさらわれたなかから、依頼者の孫息子などをピンポイントで呼び寄せるのだ、断言してしまうが、絶対無理である。
そう、実際には不可能であり、遺体の正確な位置など知るすべもない。
しかし、依頼者がほんとうに求めているのは、遺体の正確な位置以上に、孫息子の霊と出会った気分になることなのだ。
恐山のイタコの元を訪れる多くの人がそうであるように。
そういう意味で、口寄せは精神カウンセラーの一種ともいえよう。
ところで。
精神カウンセラーはある程度、病んだ者と心を共有しなければならない、というのはご存じだろうか?
恐山のイタコを見れば分かるように、依頼者の心にドップリ浸かって、その浸かり方が恍惚状態に至るまで死者のイメージを共有するのと同じことである。
その境地に届くまで、自らの心の“受け皿”を深く、広く、そしてキレイにするのがイタコの修行なのだが、子供を使った依童は、“子供ゆえに受け皿の条件を満たす”ということで、それぞれの役割に徹底させる点でより臨場感を目指した、分かりやすいやり方だ。
そういう意味で、精神カウンセラーも専門家の他に、側に純真無垢な子供を置いて、「今の話、どう思う?」などと感想を求めるのも効果的なのではないかと考える。
今回の任務を与えられた“依童”の弦(ゆづる)は、私の従兄の娘、つまりはとこの娘にあたり、五歳になる。
この弦は三歳の時、東京にはとことともに遊びに来た際、私がディズニーランドへ連れていったりしたのだが、猫のようにあらぬ方向をじっと見つめるので、何かなと思っていたら、だしぬけに、シンデレラ城にたくさんの人影が群がってると言い出した。遠目に人が集まってるのが見えたのかなとシンデレラ城の方を見たら、生身の人間はまばらであった。
「そこじゃないよ、もっと上の方」・・・弦はシンデレラ城の回りの空中をたくさんの人影が漂っていると説明した。
この時ばかりはさすがに私もゾッとした。
弦は生まれつき、こうらしい。
母親のはとこも、祖父の従兄も、叔母たちも、“依童”としての才能に喜んでいたが、私は不憫に思い、三歳の彼女に霊力を芸術に活かせるようにと、ウィリアム・ブレイクの絵葉書を何枚かあげた。
そのなかで。弦のお気に入りは、「ベヘモスとリバイアサン」、「天使たち」であった。
特に「天使たち」は、天使そのものが合掌する手に見えるので、右手と左手に私が教えた固有名詞をつけた。即ち、セラフィムとケルビムだ。
その右手、左手をひらひらさせながら、弦は自分の心を地上につなぎとめるために、両手とお話をする。
幼児によくあるひとりあそびに過ぎないのだが、親たちはその様子を東北のオシラアソビにそっくりだと喜んだ。
その弦が任務が決まった晩に、大勢の幽霊が布団の回りに押し寄せてくる夢を見たとメールしてきたので、私は詳しく聞き出した。
大きな船がくるくる回りながら、海の向こうからやってくる。
船には大勢の幽霊が乗っていて、みんなもくるくる回っている。
そうして浜辺に着いて、船もみんなもくるくる回るのをやめて、パーッとそこからそれぞれのおうちへ帰っていった。
だけど、帰るおうちがない幽霊たちは、そろって、あたしのところへやってきた。
話をさせておくれと・・・
私はこうメールした。「話がしたいのはあなただけじゃないと、左手のケルビムを掲げながら説き伏せなさい。今回はご遺族が頼んできた分だけです、と。それでも食い下がってきたら、右手のセラフィムを広げて黙らせなさい」
三歳の彼女の心に植え付けた二匹の怪物のイメージ、ベヘモスとリバイアサンが右手から現れて、弦の心を護るだろう、とも。
このように、精神カウンセラーも自衛手段に長けていないと、古来よりの慣例に従って、口寄せの依童は狂気に陥りやすくなってしまう。
だから、私は被災者の方々と同じように、弦を不憫に思うのである。霊に会いたがる人も、自らの口寄せ術を信じる叔母たちも・・・
そして自らの心のざわめきを静観、達観出来ぬ、人間のさがも・・・
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