イタリアで「吸血鬼」の頭蓋骨、見つかる
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=777439&media_id=52
吸血鬼については、幼少時に従姉と怪奇マンガの模倣で吸血鬼ごっこをしたのが原体験だったと記憶している。
ちなみにその時の怪奇マンガは、ひばり書房の「吸血鬼ドラキュラ」であったと思うが、もしかすると古賀新一の「白衣のドラキュラ」だったかもしれない。
最初は単に、お互いの頸動脈の位置を唇と舌で確かめて、軽く噛み合うというものだったが、そのうちお互いの掌をボンナイフで切って、にじみ出る血をお互い味わったりするようになった。
そこまでして初めて、自分たちも怪奇マンガのなかで生きられると思ったのである。
それくらい、私たちは雰囲気というものを愛したのであった。
そういう幼少時代があるものだから、分別がつく年頃になると、幼少時代が凝縮、蒸溜され、かつて吸血鬼であった自分自身というものが出来上がって、何かの拍子に過去の闇のなかからむっくり起き上がって、分別くさく生きている私自身を指さして嘲弄するようになった。
いささか分かりにくかったかもしれないが、私自身の吸血鬼のルーツと照らし合わせてみると、今回のニュースで浮き彫りになった吸血鬼伝承のうちに横たわる恐怖には、ある種の憧憬が込められていると確信出来る。
ハッキリ言って、写真に見られるような、口のなかにレンガを噛ませるというのは、まじないというより、哀れな女性に自分の思い描く吸血鬼への憧憬を押しつけたという方が正確であろう。
百歩譲って、女性がほんとうに誰かを噛んでいる現場を目撃したとしても、それは以下の写真に見られるような、一種の愛の表現だったに違いない。
動物の世界では、甘く噛むという行為は、当たり前の愛撫なのである。例え血がにじんだとしても、気持ちがこもった愛撫には違いない。
これだけの行為で告発されて、死後もこういう目に合わされた・・・というのが当時の野蛮さだったわけだが、死もまた当時は野蛮さに支配されていて、詳細を知るにはあまりにも危険な領域だったのだから仕方あるまい。
未熟な時代だったのだ。
その未熟な時代で、伝説と化した吸血鬼のなかで、私は常にアルノルト・パウルを思い出す。
1732年にドイツはニュールンベルグで発行された「見聞録」にて大真面目に報告された吸血鬼事件の、吸血鬼とされた男である。
以下、英文だけれどもウィキより引用。
http://en.wikipedia.org/wiki/Arnold_Paole
なかなか面白いので、英語が分からなくても字引とにらめっこして読み通す価値はある。時間のある時に是非。
個人的に私は吸血鬼とされる人間は、遺伝性の病気として知られる血友病を感染性の病気にしてしまった可能性があるとも考えているのだが、この先、吸血鬼をどんなに医学的、科学的に解明しても、人間の心のなかに潜む恐怖への憧憬は永遠に不滅のままだろう。
あなたが、あそこは自殺があったと聞かされて、そのアパートの部屋への入居を考え直すことと同じなのである。
あなたはもちろん、幽霊なんてバカバカしいと思うだろう。
しかし、あなたの心は、気持ち悪い、不快だと思うのと同時に、幽霊への憧憬が見え隠れするのだ。
吸血鬼もそういうところからやってくるのだと、私は確信している。
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