私はミステリも大好きで、ドロドロした江戸川乱歩は大好きだったが、理路整然とした横溝正史の方がもっと大好きだった。欧米なら、ジョン・ディクスン・カー、ドロシー・セイヤーズの双璧を崇拝していて、今でもフェル博士会いたさにしばしば読み返している。
そんな私のミステリ嗜好に棘が刺さったのは、エラリー・クイーンの「Yの悲劇」を読んだ小学生の時だった。
読んだことのない方のために犯人は当然明かさないが、私は今思うと、その犯人像に現在のミステリの流行である異常心理の原型を見た気がしてならない。
それ以来、私の心の奥底には、ヴァン・ダインの「僧正殺人事件」のセリフが重くのしかかっていた。
「最後の真っ暗な時間、人間の心のなかに、何ごとが起こっているか、誰も知ることはできん」
そう、人間の心の中は迷宮なのだ。それを一生の間隠し通して生きるのはいいが、時々、自らの衝動を隠し通して、迷宮そのものを長けた知略で現世に出現させようとする人間がいる。その存在を初めて意識したのは、私としては割りと遅く、映画「セブン」だった。犯人ジョン・ドゥが仕掛けた恐るべき罠。そのあまりにも理路整然とした迷宮の構築ぶりに、当時の私は驚嘆しつつ、呆然としたものだ。
でもあそこまでパターン化した殺人だと、現実的には犯人のたくらみも中断してしまうだろう。
そこで。
死体もなく、証拠もなく、目撃者もなく、そして失踪という事実も確認されない「殺人」というものが果たして可能なのかどうかという考えを思いついて、数年間、熟考の限りをつくしてきたのだが、それを解決してくれたのが、マイミクさんのピアスの形状だった。
ほんとうに単純なことだったので、ひょうしぬけしてしまったくらいだ。
それが何かは秘密にしておくが、過去にすでにその秘密の一片を明らかにしかけた作品が二つある。
ファンタジー作家として知られるウォルター・デ・ラ・メアの「失踪」と「謎」の二編の短編だ。
そこから、私の思いついた不可能犯罪を推理出来るか、頭脳を競い合うのも一興である。
そして。
私は心底思うのだ、私自身が純粋なミステリファンであって、誰かを殺すために物騒な殺し方をあれこれと考えているのではないことを、善しと。
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