従弟のケンタの息子のハル、つまり甥(正確には甥と呼ばないのだが、ややこしいので都合上甥と呼んでいる)のハルが、小学校の夏休みの自由研究を今頃になって手伝ってくれと言ってきた。
「おじちゃん、一発、ものっすげえええのを頼むよ!」とハル。
「ほう、ものっすげえええのかい。ダチの中でスゲーなと思ったのは何だえ?」と私。
「うーんとね、24時間ゲームやりっぱなしで、どんだけ不健康になるかをチェックするってやつ」
「オイオイ、アブネエな、そりゃあ。死んじまったのがいたんだぜ。ま、そんなのがスゲーんだったら、オレがガキの頃やったやつなんかスゲーなんてもんじゃあねえな」
「なに?なに?」
「うん、心霊写真の偽造だよ。つまりトリック写真の研究だね」
「わー、面白えええ!やってみたい!」
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私はオヤジのカメラ、マミヤの一眼レフで、二重露出、多重露光を連発して、心霊写真の偽造ばかりしていた。小学四年生の当時、いわゆる心霊写真ブームで、林間学校に行った際に撮った山の写真なんかは、どう見てもただの葉っぱの影なのに、赤ペンでムリヤリ人の顔とかに輪郭を描いてみせて、みんなで「霊が写ってるね」と大真面目に論じ合っていたものだ。私はその中で、唯一、霊の存在を頭から否定していたけれども、口には言わず、ある日、近所のおじいちゃんの寝顔を二重露出で撮って、一コマ前の空の写真に重ね合わせて、心霊写真としてクラスに持っていったら、もう大騒ぎで、女の子だけでなく、若い女性の副担任まで泣くくらいだった。
それで、夏休みの自由研究として、トリック写真でいかに心霊写真を撮れるかということをやったのだが、いわゆる大人たちはなるほどねぇーと褒めてくれはしたが、子供たち、クラスメイトたちはあまり喜んではくれなかった。やっぱり、心のどこかで霊の存在を信じていたかったのだろう。
それで、私は、美術の先生の教えもあって、心霊写真の偽造から本格的に美術の勉強に突入していった。
そんな私の少年時代。
今の平成少年のハルがやったとして、どのような反応が予想されるであろうか?
まず、いまどきの子供たちにとって、心霊写真は昔ほどブームではない。しかし、怖いものに対する興味と好奇心は、形は変われども、健在である。
だから、それなりにおおっと言われることは確実であろう。
でも、みんなの目を心霊写真に引き寄せておいて、ほんとうの研究のテーマを根本から訴えたとしたら、みんなは少なくとも、自分の手で「不思議」を作れることの素晴らしさに魅せられるだろう。
想像力と創造力は、子供のうちは、たとえ、悪知恵であってもいいのだ。
相手をして、信じ込ませるだけの説得力を身につけてこそ、その力は自らの技術として、善き方向に限って、飛躍を遂げるであろう。
まあ、もっとも、心霊写真を撮るのを自由研究にしようなんてのは、他にいないだろうから、イヤでも注目されるに違いないのだが。
ともかく、ハルは私の影響もあって、元々写真などの映像に興味を持っているから、この自由研究がさらなる興味へのきっかけになってくれれば、こんなに嬉しいことはない。
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ところで、心霊写真の偽造において、最大の注意をはらうべき事柄がある(ハルにもしつこいほど言い含めておいた)。
それは、「霊」の役を担う被写体は、老いぼれに老いぼれた老人に限ることである。なぜならば、心霊写真というものは、偽造であっても、「霊」として写った以上は、生きていること自体が不自然な状態になってしまうのだ。事実、私がやたらと「霊」の役を担ってもらった近所のおじいちゃんは、年内のうちにホンモノの「霊」になってしまった。
こういう現象は何もここだけのものではなくて、欧米でも何件か報告されている。
やっぱり、不吉だと心のどこかで思っていれば、それは現実のものになってしまうのだ。
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最後に。高知県の祈祷師の知り合いは、決して写真を撮らせないのだが、その理由が、魂を抜かれるからというものであった。その時は何をバカなことを言ってなさるんですと笑ったものだが、今思うと、何となく分かるような気がする。
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