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2026年08月22日06:17

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見え方の違い(8002)

「ひととき」(朝日新聞)の記事を読んで、妻と議論になった。

内容は、60歳の母親が知的障害のある息子と二人で新幹線に乗ったところ、外国人のグループが音楽などを大きな音で鳴らしていたため、息子がパニックになったという話である。母親が係員に申し出ると、号車を替えてくれた。英語ができないので、その場では相手に直接言えなかったが、次に同じようなことがあれば、身振り手振りでも伝えたい、という趣旨だった。

「新幹線であんな大声や音楽を鳴らすのは不適当やわ。ブツブツ」
「本当にそうかな。息子に聴覚過敏があったとしても、外から見ただけでは分からない。その外国人グループが出していた音は、普通の大人でも我慢できないほどの音だったのかな」

新幹線だからといって、乗客全員がチーンと静かにしていなければならないわけでもない。もちろん、車内で大音量の音楽を流したり、大声で騒いだりするのは適切ではないだろう。しかし、実際にどの程度の音だったのかが分からなければ、外国人グループが非常識だったのかどうかも判断できない。

「でも、車掌も注意しなかったし。ブツブツ」
「それもわからんね。注意するほどの騒音ではないと判断したのかもしれないし、母親と息子を別の号車に移すほうが手っ取り早く問題を解決できると考えたのかも」

妻は納得していない。
それより自分が気になったのは、この記事の書き方である。

「外国人のグループが音楽を大きく鳴らしていた」「知的障害のある息子がパニックになった」という二つの事実が並べられると、読者はどうしても「外国人が悪い」と受け取りやすい。しかし、その音が本当に誰にとっても迷惑なほど大きかったのかは書かれていない。普通の乗客なら気にならない程度の音でも、聴覚過敏のある人には耐えられないことがある。その場合、「障害のある人が困った」ことと、「相手が非常識な騒音を出した」ことは同じではない。

逆に、本当に車内の誰もが迷惑するほどの大音量だったのなら、障害の有無や外国人か日本人かに関係なく、注意されて当然である。つまり、知りたいのは「外国人だったか」ではなく、「実際にどの程度の音を出していたのか」ということなのだ。

今は、外国人に対する不満や排斥を声高に語る言説が幅を利かせている。そういう状況では、こうした記事が意図しない形で「やっぱり外国人は」という見方を助長してしまう危険もある。もちろん、記事を書いた人が外国人を批判しようとしていると言っているのではない。ただ、書かれていない情報が多いまま、外国人と障害者という二つの属性を前面に出すと、読者はその空白を自分の先入観で埋めてしまう。

「でも、障害者をそういう場所に連れて行くからだ、という話にもなりかねないんじゃないか」

普通の人でも我慢できないほどの騒音だった、ましてや障害のある息子には耐えられなかった、という前提が記事の中にきちんとあれば、話はまた違ってくる。しかし、それが分からないままでは、誰に問題があったのかを簡単には決められない。

もっとも、民生委員として日頃から福祉に関わっている妻と、外から記事を読んでいるだけの自分とでは、見えているものが違う。妻は困っている側の立場からこの記事を読んでいる。自分は、記事を読んだ一人の傍観者として、その書き方が気になった。

同じ記事を読んでも、立っている場所が違えば、見え方が違うもんだ。
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