この文章を読んで最初に感じたのは、「合唱」を忘れているということだ。発声を研究すること自体は悪いことではない。誰でも試行錯誤はするし、自分に合った声の出し方を探すのは自然なことである。
しかし、「昨日の練習で実験をしていた」「指揮者から文句を言われたらやめようと思った」というくだりには強い違和感を覚えた。合唱の練習は、個人の実験室ではない。そこには一緒に歌っている団員がいる。指揮者が気づかなければ何をしてもよいという話ではないだろう。
さらに、「低音は必ずこうしなければ出ない」と断言するのも気になる。発声法にはさまざまな考え方があり、自分に有効だった方法を普遍的な真理のように語るのは危うい。
そして極めつきは、「1910年頃のバス歌手も狂ったような発声で歌っていた」という一節である。100年以上前の録音を根拠に自分の発声を正当化するのは論理の飛躍だ。当時の録音は音質も周波数特性も現在とは大きく異なり、録音から発声そのものを断定することはできない。
文章全体を通して感じるのは、「自分の考えが正しい」という結論が先にあり、それに都合のよい材料だけを集めている印象である。音楽は一人で完結するものではない。とりわけ合唱では、自分の声がどう響くか以上に、全体の響きの中でどう機能するかが問われる。その視点が、この文章からはほとんど感じられなかった。
GTPはやさしいね。
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