「宿痾(しゅくあ)」という漢字を見て、すぐに意味がわかる人は少ないだろう。自分は中国古代史を専攻し、本棚には若い頃に分割払いで買った『大漢和辞典』(諸橋徹次)が並んでいる。もっとも、『世界歴史』(岩波書店)と同様、今ではほとんど飾りになっているのだが。
もともと漢字には抵抗がない。むしろ好きなほうだ。記号の羅列にしか見えないアルファベットと違い、漢字には文字そのものが持つ響きや意味があり、眺めているだけでもさまざまなイメージが浮かんでくる。
今日の朝日新聞に国連についての記事が載っていた。現在、安全保障理事会は機能不全に陥っているが、その状況を表現するサブタイトルに「宿痾」という言葉が使われていた。大学教授へのインタビューで出た言葉をそのまま見出しに採用したらしいのだが、読んで思わず首を傾げた。
もちろん「宿痾」という言葉の使い方自体は間違っていない。単なる失敗や困難ではなく、長年にわたって解決されない構造的な問題という意味を持つ。安保理の現状を表す言葉としては、むしろ的確なのかもしれない。
しかし、それが新聞記事のタイトルとして適切だったのかと考えると疑問が残る。新聞は研究論文ではなく、不特定多数の読者に情報を伝える媒体である。読者に立ち止まって辞書を引かせるような言葉を見出しに使うことは、本来の役割にかなっているのだろうか。
そこに、自分はある種の専門家の自惚れや傲慢さを感じてしまう。明治時代、西洋の思想や学問が流入した際、多くの概念が漢語として翻訳され、時には仏教用語なども援用された。その結果生まれた言葉の多くは、今では私たちの日常語として定着している。
だが、「宿痾」というおどろおどろしい漢字が新聞の見出しに躍るのを見ると、編集者や発言者はいったい誰と意識を共有したかったのだろう、と考えてしまう。言葉の格調を示したかったのか、それとも知的な雰囲気を演出したかったのか。
難しい言葉を使うこと自体が悪いわけではない。しかし新聞に求められるのは、まず伝わることである。漢字好きの自分でさえ一瞬立ち止まったのだから、多くの読者はなおさらではないだろうか。そんなことを考えながら、朝の紙面を眺めていた。
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