マジックや手品の種明かしは、昔から苦手だ。というより、見ないようにしている。ただ「すごいなあ」と感動するだけで十分で、「実はこうなっていて……」と説明されると、途端に興味が冷めてしまう。だからそういう場面に出くわすと、テレビでもYouTubeでもすぐに消す。
「変面」などはその典型だ。見るたびに、なんてすごいんだろう、現物を一度は見てみたいと思う。ところが「超高感度カメラで撮影すると……」などという動画が上がっているのを見ると、ほっといてくれ、と思ってしまう。あれは解明されるための芸ではないのだ。
推理小説はまったく逆だ。子どもの頃から読み続けているが、こちらは謎が解明されるまでのプロットが面白い。そして読み終えたあと、もう一度読み返すと、面白さが倍になる。
最初は気づかなかった伏線、何気ない一文の意味、すべてが見通せるようになった世界を、あらためて歩き直す楽しさ。そういう意味では、コナン・ドイルやポーなどの初期の推理小説は、正直あまりピンと来ない。一度読めば「なるほど」で終わってしまい、再読する気にはならない。
マジックは「分からないままで終わる」ことが完成形だが、推理小説は「分かったあとに完成する」芸術なのかな。
マジックのほかに、アクロバットも好きだ。「ベラトール」などを見ていると、どうして人間がこんな動きをできるのだろう、と驚く。もちろん、ルールの決まったスポーツも面白い。だがそれ以上に惹かれるのは、人間の運動能力はどこまで行けるのか、という問いそのものかもしれない。
ここまで書いてきて、ふと、これらは声楽にも通じているのではないかと思った。声楽には、解剖学や発声理論、共鳴の仕組みなど、数えきれないほどの「説明」がある。だが聴く側にとって必要なのは、理屈ではない。「どうしてこんな声が出るんだろう」それだけで十分なのだ。
歌い手自身にとっては、再現するため、壊さないために理屈は必要になる。しかし、舞台上で起きていることは、マジックやアクロバットと同じく、一瞬の「できてしまった」という奇跡であってほしい。
解かれてほしくないもの。解かれてこそ面白いもの。自分の中に基準があるようだ。
ログインしてコメントを確認・投稿する