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2021年09月10日08:48

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超越と隠蔽 桐朋高校校歌の真の意味2

さすがは、佐藤春夫が手掛けた、桐朋高校の校歌。

そこには、春夫らしさとともに、時代が刻印されています。
時代とは、昭和初年代に生まれ、戦後しばらくまでつづく、超越へ志向、それを隠蔽する志向です。
川端康成は、『雪国』の冒頭で、越後湯沢に向かう島村を車内から見るカメラアイと、雪に包まれた記者を包括するカメラアイを設定して、やがてそれが一体となった文学世界を作りました。後者の全体をみている超越的な視点は、ちっとやそっと熟読しても分からぬように隠されています。

さて、佐藤春夫の
桐朋高校校歌を
引用します

国立の岡にして 学校の良き窓は
老松の枝越しに 富士ありて若人を
おほらかに教へおる
天地に人な恥ぢそと

玲瓏と仰がるる 高嶺なる雪に似む
わが心俯して知る 武蔵野の春秋に
少年は老やすし 天地は永遠に新たに

好き友の 寄り集ひ 多摩川の岸玉攻き
志いや高く 名もゆかし桐の朋
鳳凰の雛の家
天地の真実啄ばみ

第一連は、
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1980275240&owner_id=12410478

で述べたように、
「少々の悪いことをしても、少年よ、この雄大な天地の運行と比べてみよ。決して愧じることではない」
という意味です。
繰り返しになりますが、学校のホームページが言っているような「愧しくない人間になれ」とは、一言も言っていません。

今日は、第二連です。

「少年老いやすく」というと、朱子の「少年易老學難成一寸光陰不可輕」を連想します。戦中世代にとって、耳にタコができるほど聞かされた章句であり、
「人間は簡単に歳を取ってしまう。学問を成立させることは難しいから、脇目をふらずに勉強しろ」
という意味です。その意味にからめとられがちですが、

本当の意味は、
「富士山の白雪のような高所から下を俯瞰すると、<少年は老いやすく、天地は日々に新しく変容していることがわかる。私はそのような純粋な高みにいる人間になりたい>
という意味です。世情の変化と人の一生を超越した存在になりたいと。

これほどの志の高さが、あるでしょうか。
普通、志が高いというと、ノーベル賞を取り、内閣総理大臣になるなどを連想します。しかし、ここで歌われている志は、そんな小さな志を吹き飛ばすものです。

しかも、ちょっと読んだだけではわからないように隠蔽されているところが、ミソですね。

春夫と同時期に作家になって春夫と深い因縁がある谷崎潤一郎『春琴抄』も、わかる人にはわかるという、たとえば、「春琴が自らお湯を被り醜い姿になり、佐助の愛情を確かめようとした」
「佐助が春琴にお湯を浴びせ、目をついて盲目となり、至上の愛を完成させようとした」
などの説があります。
そう考えると、時代のトレンドだという見方もできますが、
春夫は『雨月物語』をもっとも初期に愛読した人です。『雨月物語』にも隠蔽があり、隠蔽されたもの、あるいは隠蔽するという行為そのものに倫理性があります。そこからの影響かもしれません。


<参考> ホームページから。内容は本文に書いた通り、大間違いです。

国立の丘にそびえたつ僕等の学校の窓からは老松の枝ごしに朝夕富士がながめられる。
その富士のいかにもゆったりとした姿はいつも『この雄大な大自然に対してはずかしくない人間になれよ。
こせこせした人間になるなよ』と僕等に教えている。
その美しく輝く富士の高峰の雪の様に清らかな心を持とう。武蔵野の季節の移りかわりにつけても『少年は老い易く学成り難し』という言葉の意味を良く考えあじわい、さらにこの様にすばやくすぎ去ってしまう人生にひきかえて、はかり知れない遠い昔から決して古びることなく常に新しい姿を見せている大自然の偉大さを考えあわせ、たえず新しい勇気をふるいおこして努力してゆこう。
良い友達がより集っている多摩川に近いこの学校で、多摩川の石が流れにみがかれる様に、我々もすぐれた素質を、一層磨き上げ、ますます志を高く持って勉学に運動にはげんでゆこう。鳳凰という鳥は桐の木にだけ住むと言われているが、そう考えると桐朋という名は実におくゆかしい名だ。そしてこの学校は、その鳳凰のひなの様な僕等が宇宙の真実を探求しながら、鳥でいえば鳳凰の様な立派な人間に育ってゆくところなのだ。

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