この院長が、昨日のNHKのインタビューで何といったか。
記者「責任はないのか?
院長「う〜ん。
亡くなった人の一人は、若いころすごくタバコを吸ったそうだよ。怖いね〜タバコって。」
これですよ。
説明の必要は、全くないと思います。
大体、この件は内部告発で明らかになったということです。
内部告発がなければ、バレなかった。
内部告発があるほど、人間関係が悪かったとも言えます。
また、「業者に修理に一ヶ月かかる」と言われたそうですが…
業務用クーラーを即日修理するという業者は、ネットをみると山ほどあります。
まあ、人間何てこんなものですね。
見張っていないととんでもないことになります。
もちろん、他の職場も同じです。
法律があるから、我慢して悪いことをしないでいる。これが、人間の一般的な姿でしょう。
善良だから悪いことをしない。
私のような普通の人間
(私は自分のことを善良だと思いますが、これが当たり前。別に偉そうに言うことではないという意味での普通です)
は、そう考えがちですが、むしろ例外なのかもしれません。
殺人事件で捜査ということです。
未必の故意でしょう。
未必の故意の事件は、公判維持はむつかしいかもしれませんが、たとえば危険運転による交通事故などにどんどん適用してほしいです。
■5人目の死亡確認、熱中症か 岐阜の病院、連絡なし
(朝日新聞デジタル - 08月29日 05:51)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5264484
今日は、国会図書館で、井筒俊彦の全集を読みました。
個人のコミュニケーションが成立するかもしれないという考え方の根底には、普遍人というべきものの想定がある。
これは、良い指摘です。
また、
キリスト教文化圏では、主の姿の鏡像としての我の設定がある。
禪はそれを壊すところからスタートする。
といった綺羅星のような言葉を見出しました。
要するに、たとえば「主イエスキリストならこういう悪事はしない」などという倫理観を持つ。
ところが、応灯関の禅は、鏡像がなくても悪事を働かない自然体を定立しようとするということでしょう。
天罰などの因果関係は、分節言語で語られます、分節言語は、ある方向からのスポットライト、全てを語れないからです。
さすがに井筒俊彦ともなると、(注)を付けませんね。
学術論文では、本当にいいことを言うのは限界があります。
日本では大家にならないとエッセーは書きにくいですが。
ところで、
主イエスキリストと、主は同一でしょうか。
虚心に聖書を読むと、全く別人格のような気がします。
むしろ、完全に他人である、応灯関の、一休と沢庵の方が近いと思います。
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