最終話です。
『河神の誘惑』第20話
サガが月に一度の定期報告まであと五日ほど残していたその日。
彼はアテナ直々の命によって、教皇の間の謁見室に呼び出された。
「よく来てくれました、サガ」
「は…」
玉座の上に座る少女の姿をした戦女神に、サガはひざまずいて礼をとった。彼女の傍らには教皇たる射手座のアイオロスが控えている。
アテナ沙織は、楽しそうに明るく笑って、サガにこう言った。
「聞きましたよ、サガ。アケローオス河神に求婚されたそうですね」
「……!」
驚きのあまり硬直したサガは、面を上げて呆然と主を眺めた。沙織はころころと笑い声を上げながら話した。
「アケローオス河神から私にお願いをされたのですよ。サガを女の身に変えて自分の子を産んでほしい、出来るならば正妃に迎えたい、どうか私からも口添えを願えないか、とね」
「ア、アテナ、それは…」
まさか「あの姪はちょっと怖い」と河神が評していたアテナに手を回されて外堀を埋めにかかられるとは思わなかった。サガは動揺し、困惑した。アテナに「聖域のために河神の求婚を受け入れ、子を産みなさい」と命令されては、サガには拒否の余地がなくなってしまう。女神の傍らに立つアイオロスも、初めて聞く話に内心の驚きを隠せないでいた。青ざめ、たらたらと冷や汗を流している。
人間たちの反応などどこ吹く風で、女神は鈴を転がしたような心地よい声音で語った。
「あの河神は、神話の時代にも人間の娘を妻にと望んだことがあったのですよ。その時は恋敵がヘラクレスだったので、求婚権を巡る争いに負けてしまって、以来、ずっと独身を貫いていたのですが…。まさかまた人間を、それもあなたを妻に望むとは!本当に変わった方!」
ひとしきり笑った女神は、居ずまいを正して言った。
「サガ」
「はい」
優しい声がサガにかけられた。
「私はこの件で、あなたにどうせよとは言いません。私の、そして聖域の益になるかどうかなど、考えなくてよろしい。あなたの心の思うままに、あなたの心の中の『愛』が命ずるままに、行動しなさい。どんな決断であれ、私は受け入れましょう。私はあなたの幸福を望みます」
そして彼女は、下がってよろしい、とサガに退出を許した。
サガが謁見の間を出ると、横の扉から部屋を出たアイオロスが小走りに駆け寄ってきた。
「サガ、先程の話は本当なのか?アケローオス河神に求婚されたというのは…」
「あ、ああ。私の肉体を女に変えて妃にならないか、それが出来ないならばせめて子を産めないかと言われていて…」
困り切ったサガは、おそるおそるアイオロスに尋ねた。
「アイオロス…、私はどうしたらいいと思う?」
くわっとアイオロスは怒って怒鳴り返した。
「おれに聞くな!そんなこと!」
「そ、そうだな…」
アイオロスは舌打ちし、イライラとサガの周囲を歩き回った。従順にうなだれているサガの態度が余計に彼の苛立ちを誘う。
おそらくアイオロスが「こうせよ」と命じれば、サガはそれに従うだろう。サガの愛がまだ自分の上にあるという証明であるその従順さを、アイオロスは苦い思いとともに時間をかけて飲み下した。
「サガ」
やがて足を止めたアイオロスが名を呼んだ。
「何だ、アイオロス?」
そして彼はこう言った。
「アケローオス河神の子を産むというなら、好きにすればいい。だがその時は…おれの子も産んでもらうぞ」
「アイオロス…」
それだけ言い、法衣の裾をひるがえしてアイオロスは教皇の間の奥に消えた。
兄がアテナ直々に呼び出されたと聞き、何事が起きたかと心配して双児宮でサガの帰りを待っていたカノンが、十二宮を下りてきたサガから河神の求婚話を聞き、驚きのあまり腰を抜かしてずっこけるのは、それから間もなくのことである。
<FIN>
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