『河神の誘惑』第15話
双児宮で衣服を着替えて、サガは仕事の残るアテネ市内の事務局に戻った。すると、そこには河神が訪ねて来ており、彼の帰りを待っていた。
「アケローオス様…」
涙をにじませて目を赤く腫らし、死人の様な蒼白な顔で帰ってきたサガを見て、聖域で何があったかを河神は察したようだった。
「アケローオス様、アケローオス様…」
河神の姿を見つけたサガは彼に近寄り、そして服をつかんで怒りとともに迫った。
「どうして…私に…!?いつの間にあんな使い魔を…!?」
「…ああ、やはり教皇はお前を傷つけようとしたのか」
河神がサガの左胸の印に秘かにひそませた守護の魔物が動いたということは、そういうことだった。
「どうして…!?こんなものがなければ…私は…、私は…!」
サガは己の左胸の印を服の上から掻きむしった。アイオロスへの愛の誓いとして刻んだはずの射手座のシンボルマークの入れ墨が、アケローオス河神の守護魔の依り代となり、サガがアイオロスへの愛に殉じることを阻む一助となってしまったのだ。今となってはサガは、守護魔を宿した胸の印が疎ましくてたまらなかった。
「…サガ、少し二人で話をしよう」
この場では他の事務官たちの目があった。彼らは何事が起きたかと、一様に二人に心配そうな目を向けている。サガの衣服が変わって戻ってきたことも異変をいぶからせた。彼らに「大丈夫だ。あとはおれに任せろ」と言い残し、河神はサガの肩を抱いて彼を応接室にと連れていった。
応接室で河神と二人きりになったサガは、ソファに座りこんで泣き始めた。
「う…うう…」
「ほら、サガ、これを飲んで…」
秘書官に持ってこさせた冷たい水をいれたグラスを河神がサガに差し出す。水を少しずつ飲んでいるうち、サガの気分は少し鎮まってきた。
「アケローオス様…」
こぼれる涙をぬぐうサガに、河神が語りかける。
「馬鹿だな。正直に教皇に話さなくても、黙っていればよかったものを…」
カノンと同じことを、河神は言った。
「…アイオロスに…秘密を作るわけにはいきません…。作りたくない…」
「お前はそう言うだろうとカノンに言われた。だから、この日に備えて守護魔をお前につけておくことにした」
二人の関係を知って逆上したアイオロスがサガを痛めつけることがないように、と河神は己の力でサガを守ったのだ。
サガが顔を上げて、河神に迫った。
「アケローオス様…。私につけたあの守護の使い魔を、外してください!」
「それは出来ない」
「私は…私は、アイオロスの制裁を受けなければいけないのです!私は、彼を裏切って…!」
「おれはお前が傷つけられることを望まない」
「……」
「ヴァシリスとエレナは…おれの力で守ってやることが出来なかった。お前にまで、そんな無力な真似はしたくない」
望みが叶えらぬと知ると、サガは面を伏せて顔を手で覆い、肩を震わせて再び泣き始めた。愛の裏切りに対する罰をアイオロスが望むというのなら、サガはそれを受けたかった。アイオロスの気がすむまでサガを傷つけ、犯し、苦痛を味合わせ、苦鳴させ、絶叫させて欲しかった。それでアイオロスの気が晴れるというなら、サガはそれで良かったのだ。
「教皇はそれほど怒ったか…。お前には悪いことをしたな。おれがお前を強引に手折ったばかりに…」
サガの頭を撫でながら、河神が呟く。
「違う…」
サガは涙で濡れた顔をぬぐった。
「あなたに抱かれたというだけなら、きっとアイオロスは怒らなかった…。あなたを味方につけるために体を差し出したというなら…、それがアテナのため、聖域のため、アイオロスのためになることなら、彼は許したでしょう。聖闘士の義務として…。でも私は…」
サガが震えながら言葉にする。認めることを恐れていた、その事実を。もはや自分の心が、愛が、アイオロスの上だけにあるのではないという事実を。
「私は…体だけではなく、心まであなたに…。腕ずくで犯されたというのに、私は、あなたのことが嫌いにはなれない…。心は、心だけは、アイオロスを、アイオロスだけを愛していなくてはいけなかったのに…なのに私は…あなたを…」
「…おれのことを愛してくれているのか、サガ?」
河神の問いに、サガの空色の瞳が揺らいだ。
「わ、分からない…。分からないんです…」
そして続ける。
「あなたのことは嫌いではない…。でも、愛しているのか、分からない…。この気持ちを愛と呼んでいいのか、分からない…。アイオロスを思う気持ちと、あなたを思う気持ちは、全然違う…。でも、嫌いではない。あなたに嫌われなくない…。離れてほしくない…。今までのように、私の側にいてほしい…」
「ああ」
河神はサガの肩を抱きよせ、そっと彼の頭を撫でた。サガも河神に頭を委ねた。河神の暖かな癒しと慰めの小宇宙が肌と肌を通して流れ込んでくる。ゆったりと流れる大河のような彼の愛と小宇宙に包まれることは、サガの心を幾分か安らがせた。
「…まるで優しい兄を愛おしく思うように、あなたを愛している…」
「そうか」
それでいい、と、河神は言い、サガの頭にキスを落とした。
「今夜はおれは帰ろうか?教皇とのことを一人でゆっくりと考えたほうがいいか?」
「…い、嫌です」
一人置き去りにされようとしたサガの表情には動揺と恐怖が浮かんだ。河神の服をつかんですがる。
「嫌です…。一人にしないで…。一人にされたら…きっと嫌なことばかりを考えてしまう…。一人は…怖い…。いつものように抱き締めていて…」
「分かった」
その日はサガは仕事を切り上げ、河神と二人で官舎に戻ると私室に籠ったのだった。
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