公演中の或る日、楽屋で勝新太郎が、
「おい、お前……客っていうのはアレ、何を聞いてんのか分かるか?」
と唐突に尋ねてきたのだという。返答に詰まっていると勝新はこう言ったという。
「客はな、役者の台詞なんざ聞いちゃいねえんだ。アレはな、声を聞いてんだ――音を聞いてるのよ」
なるほどなあ、とその役者は感心したそうだが、又聞きした私も感心した。そういう持論があるから、勝新は舞台上で時折わざと聞き取りにくい小声で、囁くように台詞を言っていたという――意味はわからなくても、歌うようなその台詞回しに、観客は酔っていたらしい。
また昨年のことだったが、或るお坊さんにお経を唱える意義について尋ねてみたことがある。まったく内容の意味がわからないお経を、皆の前で唱えるのはどうしてなのか、と率直に聞いたのである。するとお坊さんは何でもないことのようにこう答えた。
「あ、お経はね、別に意味は分からなくていいんです。大事なのは声、音ですね。お経が聞こえる範囲に”音の空間”ができるでしょう? その空間の中に一緒にいる、ということが重要なのです」
へえ、と私は感心しきりだった。まことに声というのは、奥深いものだと再認識した次第である。
no where now hereより。
リンキン・パークを聴いていて、ふと、耳が悪いのに歌手がなんて歌っているのかワカるのか?と音大の知人に素朴な疑問をぶつけられたことを思い出した。と、同時に、上に貼った勝新のエピソードも思い出した。
当時の私は知人に言ってやった。「歌詞をなぞりながら歌を聴くなんてバカのすることだよ」
「Boy Lights Fire」ではビートルズのストロベリーフィールズ・フォーエバーの歌詞を引用したが、そのままの歌詞ではなく、私自身がそう聴こえるのを書き起こした。そうすることで、他のヒトにはそう聴こえない異次元感を表現したのだ。
要は全身で受け止めるライヴ感。そこに音楽の素晴らしさを感じるのが自然であって、歌詞のメッセージ性を強調して歌手の言いたいことがワカッてんのか、オマエラ!などとつっかかってくる輩は心の底から音楽を愉しめていないボケナスどもだ。
若い聴覚障害者の子たちのあいだで聴こえないしわからないからと音楽を愉しむことを諦めてしまっているのが多いと聞くけれども、私は声を大にして申し上げたい。聴こえなければ肌で感じればいいと。私は幼少時、音感を磨くためにでっかいアンプの前に座らされて爆音を浴びることを何度も繰り返した。ボリュームマックスでビートルズの「マジカルミステリー・ツアー」を全身で浴びた三歳児がどのような進化を遂げるのか想像出来るだろうか?私を見よ。第一、英語も理解出来ないうちから音楽を愉しめるというのは、やはりコトバではなく音がものをいっているわけである。
爆音の「からたちの花」で初めて日本語の意味と合わさった音を愉しんだけれど、骨身にしみるコトバというのもやはり言語感覚ではなく音がすべてを支配していた。
♪からたちの花が咲いたよ。
白い白い花が咲いたよ。
この歌い出しだけで涙が出るのは、音を観る以外に何の感覚があるだろうか。
ドーム型の密閉式ヘッドホンで聴こえない耳を覆って、ボリュームマックスで爆音を脳天へ流し込め。今ではこぢんまりしたスピーカーに出来るだけカラダの部位を密着せよ。ホネに直接響く爆音からメロディを感じ取れ。
酔うことの悦びを知れ!
ログインしてコメントを確認・投稿する