妖怪純文学の試み。
私の引き出しのひとつの「妖怪純文学」(詳しくは過去日記「妖怪純文学の試み。」を)。
妖怪については系統というものがあるようで、例えば
水木しげる先生は
鳥山石燕、
荒俣宏先生は
井上円了の系統を自称しておられるが、はっきりとした根拠はない。
私にとって妖怪の祖は祖父である。祖父が若い頃からスクラップしてきた
東京日日新聞などの妖怪記事のあれやこれやは水木しげる先生以上の情報量があった。
妖怪は実在するのか、しないのかという命題において、祖父はきっぱりこう言い切っていた。
「気のせいだよ」
でもすぐにこう続けた。
「気のせいではあるけれども、本人にとっては確かに見えちゃうんだからしょうがねえよな」
水木しげる先生も「妖怪なんでも入門」で妖怪は人間の頭が産み出したものであると言い切っているのだが、八十を過ぎたあたりから怒りっぽくなって、古い祠などに小便をひっかけたりして、たたりを期待するという奇行をしばしばするようになった。
このあたりも非常に人間的であるということで、私は人間が妖怪に憑依する観点で純文学が書けると確信して、「古杣」から書き続けている。
幽霊、妖怪といった類いのものを実際に見ても、それがキチガイ老人でない限り、やはり気のせいなのだ。重要なのは、自分自身がリアルにそう感じることそのものであって、なぜそう見えるのかを我が身をふりかえって追及する。
幻想文学にありがちの、わけもわからずに恍惚として物語に流されていくのは、興ざめでしかない。横を向いて低く嗤うだけだ。そういったファンタスティックなものから離れて、リアリスティックに妖怪を見る。その向こうには生々しい自分自身が漂っている。その様を冷徹に物語っていくことが純文学の新しい分野になりうるはずである。
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