ミガン じゃあ、男の人が、妻に自然分娩で生んでくれ、っていうケースはあるかな。
未映子 信じられへんことに、これがかなりおるらしい。「無痛なんか……子どもはお腹を痛めて生むものだから……」とか言うらしい。「お腹を痛めないと愛情が芽生えない」とか。まじで信じられへん。そういう男性にかぎって、「嫁が料理にクックドゥを使ってたら、ひく……」とか言いだすんやろ。ツイッターで時々話題になってる。
ミガン 味の素をなめてんのか! っていうか、おまえが自分でダシとれんのか。
未映子 ほんまやで。っていうかさ、嫁って言葉、はやく禁止用語になればいいのに。ま、人間は多かれ少なかれ、自分のやってきたことが正しかったのだと思いたいもんやん。だから自然分娩しか選択肢がなかった時代に出産した世代ほど、無痛分娩に厳しいっていうのもあるんじゃない? 男性の価値観は、もちろん社会に出て獲得して強化されるものも大いにあるけど、基本的には育った家の価値観、親の夫婦間の常識が刷り込まれてるもんやん? ちょうど「電車にべビーカーを持ち込むのは迷惑」っていう論争にしても、一番声が大きいのは、抱っこ紐で育ててきた今のおばあちゃん世代やし。
ミガン わたしもこのまえ、たまたま抱っこ紐を使ってたら、電車の中でおばちゃんに、「いまどきみんなベビーカーなのに偉いわねえ……」ってめっちゃほめられた。脇にめちゃめちゃでかいベビーカー畳んでおいてあったん、見えへんかったんかな。
未映子 だから、それは「しんどい思いをして子育てした自分が偉かった」って言いたいんやと思う。性別かかわらず、人は自分の選択が正しかったと思いたいもんやし、損をした、と思いたくないねん。だから母乳で育てた人はどこかで母乳信仰になるし、ミルクで育てた人はミルクでよかった、ってなる。でも、そんなんってさ、収入とか、家族関係とか、家の間取り、夫との関係、体調、みんなばらばらの中でできあがるもので、答えが一つになるはずもないのに、けっこう自分の体験を絶対化してしまう傾向があるんやなって感じたわ。
ミガン たしかに。そのへんは、けっこう慎重になってた記憶ある。
未映子 そうそう。たとえばおなじように子育て中の人と話してて、自分がいま何か押しつけてないか、知らず知らずのうちに正しさをぶってないかってことは、めっちゃ意識してチェックしてた。でもなあ、小説なんか書いたり読んだりして、いくつもの異なる価値観にふれて、それを全面的に良しとしているつもりでいても、いざ自分が妊娠して生むという当事者になってみると、価値観ががちがちに固まってて、なんでも選択肢が2、3個しかないってことにびっくりした。自分が情けなかったわ。自分が思ってるほど、自由な想像力も柔軟性も、そんなん、ほんまにないに等しかった。
芥川賞作家・川上未映子さんと「ママ友」の爆笑対談 (前編) 「あるべき母親像」の呪縛 より引用
檀家の嫁姑戦争のあいだに入る度に思い知らされるのは、姑のバカさ加減とムカシのヒトのわけのわからない精神論である。
上で川上さんが「しんどい思いをして子育てした自分が偉かった」と言いたいと指摘しておられるように、たいていの昭和生まれの母親はそういう傾向にある。
私の同級生は五人の母親なのだが、自然分娩、昔ながらの布おむつ、抱っこ紐と、明治生まれの祖母の産み方、育て方を盲信しすぎて、無痛分娩のキーワードを耳にしようものなら、必ず二言目にはロクなコドモになるわけがないと切り捨てる。そして、私のツッコミ、「こないだおめえんとこのガキがよそんちのガキを突き飛ばして泣かしてたぞ。ロクデナシだよな」にいちいちマジギレする。
このなんというのか・・・凝り固まった母親精神論はなんとかならないものだろうか?
上に貼った記事のサブタイトルに呪縛とあるのは言い得て妙で、まさに親からの先人たちの呪いと言うべきものであろう。ここはこうした方がいいとか、経験からの助言程度ならいいのだが、ここはこうしないといい子にならない!と決めつけてくるのは、要するに自分が気に入らないだけで、先日も私の若い頃はベビーカーなんてなかった。甘えてる、コドモは抱っこしなきゃダメだと愚痴をたれる姑がいて、でもベビーカーが当時あったらやっぱり使うんでしょ?と凹ませてやった。
逆に、私が尊敬する姑というのは、終始思いやりに徹する上品な婦人であって、決して若い嫁のやり方に口を挟まない。ほんとうに困った時だけ、黙って寄り添う。残念ながら父方にも母方にも身内にはそういう女性はいなかったが、近所の呉服屋の大奥さんがまさにそれなので、よしこさんも八重バーも敬愛して品の良さを真似している。当然、嫁の若奥さんとも仲が良く、家庭円満を絵に描いたようなところだ。
出来ないはずはないのだ。今からでもやろうと思えば、改心して、ヒトが変わったようにいい姑になれる。それが出来ないのは安っぽいプライドにすがりつくことしか出来ない、品のなさにある。自ら呪縛を断ち切れないメンタルの弱さにある。そんなモノを抱えたまま生きていくなんて、ほんと、バカじゃねえのかと呆れてしまう。
昔は昔、今は今。時代に沿った生き方が出来ない女ほど、見苦しいものはない。自分の足で姥捨て山へ歩いていくべきだ。実際、愚痴ばかりたれる檀家の姑にそう言ってやったら、私に死ね死ね言われた、もう死にますと遺書を書いたらしい。後で報告してきた舅にそれで死にましたかと聞いたら、いや遺書を書いただけでした、今は友達と歌舞伎観に行ってますとのことであった。
決して死なない見苦しい女も、それはそれでバイキンマンのように存在価値を与えられているのかもしれないと思う今日この頃である。
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