末井昭さんの『自殺』という本がある。末井さんの母親は、若いときに愛人とダイナマイトで心中している。母親が木っ端みじんになっているのである。この体験をしばらく誰にも話せなかったが、あるとき、篠原勝之さんに思い切って話したときに、彼が笑いながら聞いたという。そして、そのことで、その話を他人に話すことが、かなり楽になったという。
私の笑いが、この笑いと同じだと言っているのではない。ただ、いつも考えるのは、このとき篠原勝之さんが「わざと笑った」としたら、どうだっただろう、ということだ。おそらくそれは、末井さんを深く傷つける結果に終わり、そして末井さんは誰にもこの体験を話すことができなくなって、そしてこの素晴らしい本も生まれなかっただろう。
私の勝手な想像だが、篠原勝之さんはその話を聞いて、馬鹿にしたのでも、表面的に面白がったのでもなかったのだと思う。ただもう、その話を聞いて、笑うしかなかったのだ。
岸政彦 「断片的なものの社会学」より引用。
先日の日記、大島てるのハナシでもそうなのだが、私は近所の飛び降り自殺や焼身自殺を笑いながら受け止めたり、語ったりする。
当然、キマジメなヒトからしたら不謹慎そのもので、何度も常識を疑われた。
「ココでおばあさんがノドを包丁でかっきって、それで死ねなかったもんだから、ベランダで灯油被って焼け死んだんだってよ」と友人。
「あははー、そりゃスゲーや」と私。
矢切の事件の時の会話を思い出すと、友人は私が何で笑うのかさっぱり理解出来なかったらしく、びっくりした顔で「何がおかしいんだ?」と詰め寄ってきた。私は即答した。
「おかしいって?おかしくなんかねーよ、もう笑うしかねーじゃん、こんなの」
この笑い。
上に貼った篠原さん(クマさん)のエピソードを読んで、私は三十年近く経ってやっと安心出来た。みんなが指摘する不謹慎さはやはり薄っぺらい常識でしかなかったのだ。
そして、感情は決して喜怒哀楽の単純な枠のなかにとどまらないことを、我々はあらためて見直すべきである。本来、日本語はもっと複雑に、美しく、多彩な感情の表現を有しているのだから。
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