福島 あの幼女殺人の手口を「人間のすることとは思えない」とか、いろんな人がいっていましたが、それは人間というもののイメージについてのストーリーを勝手につくっているだけで、ほんとはこういうこともできるのが人間なんです。
岸田 そうです。動物はしないですから。
妄想と現実のあぶない関係
伊丹 ウン。じゃあ、もう少し妄想の話を掘り下げますか。エート、幼女を殺すということを夢見るというのはたしかに妄想でしょうが、じゃあやさしい女と結婚して、子供をつくって、しあわせな家庭を築くというのが妄想じゃないかというと、これまた妄想であることには変わりはない――わけですよね。もともと人間というのは妄想体系でしょう?どんな妄想でも持ち得ますよね。
岸田 ええ、妄想は、ほんとに自由ですから。
伊丹 妄想なしの人間というのは、あり得ますか。
岸田 人間というのはもともと妄想ですから。「まず初めに妄想ありき」です。
●――ちょっとすみません。もし――もしですよ、もし妄想のない人間がいるとしたら、それはどういう人間なんでしょうか。
岸田 パンのみで生きることができる人間ですよ。しかし人間は、パンのみで生きられないですから。まず妄想が出発点です。それが、いろいろの関係のなかで制限されていく。ある種の妄想は、共同化されて、それが常識になっていく。そういう形で成り立っているわけです。だから、人間関係で制限されない限り、どのような妄想でも、妄想としてならあり得るということですね。
伊丹 ようするに、人生そのものが妄想だといえば、いえないこともない。すると、妄想と現実の関係はどうなりますか。M君のことを論じるときに、よく「空想の世界へ入り込んでしまって、現実を見失った」という言い方をしますけれども――。
岸田 ええ、「空想と現実の区別がつかなくなった」とか、よくいわれていましたね。
伊丹 その場合の現実というのはいったい何なんです。妄想とはっきり対立概念みたいになった現実というのはあるんですか。
岸田 いや、だから、現実というのは、共同化された妄想だから――(笑)。現実と妄想の区別がつかなくなったというのは、やはりあたらないと思うんですよ。
伊丹 あたらないですよね。むしろ私的な妄想と、共同化された妄想との、ぶつかり合いであって――。
岸田 ええ、それもありますけど。しかし、彼がもしほんとに現実と空想の区別できないで、空想でも現実でも同じだったなら、彼は幼児殺しを物語につくったり、絵にかいたりしたってよかったわけです。それで満足できるはずでしょう。それでは満足できないで、なんで現実にあんなことをやったかというと、現実と空想の区別がちゃんとついていたということですよ。だから、現実と空想の区別がつかなくなって、だからあんなことをやってしまったという説明は、どうも成り立たないというふうにぼくは思います。
空想と現実の区別がつかない人の代表が芸術家
福島 区別がつかなくなるのは詩人とか芸術家であって、犯罪者は区別がついてるからこそやってしまうという説ですね。
岸田 ええ、そういうことです。
伊丹え?ちょっとそこのところ、もう少し説明してください。
岸田 詩人とか芸術家というのは、自分の妄想を物語につくったり、絵にかいたりすることによって、カタルシスを得て、自分の妄想を満足させ、解放する。それで満足や解放を得られるということは、芸術家こそ、現実と空想の区別があいまいなわけです。
伊丹 ハアハア、あいまいだからこそ芸術で妄想を満足させるわけですね?しかし、ふつうはそういう――昇華作用というんですか――つまりポルノビデオを撮ったり、見たり、そういうことによって自分のなかの反社会的な妄想のようなものが、別の形でガス抜きをされて、その人は健康な社会生活を営み得るという具合になっているものですけど、それがM君の場合はあそこまでいっちゃった。つまり、彼は一種の創作活動をやっていたにもかかわらず、それが昇華作用にまでならなかったというのは――。
岸田 だから、非常に現実と空想の区別がはっきりしていたんだ(笑)。空想では代理満足できなかった。
伊丹 そうか。いくら創作活動をやっても、それは空想にすぎないじゃないかと。おれは現実のほうがほしいんだということですか。
岸田 ええ。そうじゃないですかね。
伊丹 それは新説だな。
・・・・・・
以上、引用が長くなってしまったが、NESCOが1990年1月に発行した「倒錯―幼女連続殺人事件と妄想の時代―」の、私がイチバン瞠目したくだりである。伊丹十三、岸田秀、福島章の各氏による討論は、当時二十歳だった私に決定的な刺激を与えた。
シリアルキラーこそが現実の希求者であるというのは、当然、書き手としての姿勢は変わってくる。シリアルキラーを妄想にとりつかれた狂人という一般的な見方はこれから一切許されず、書き手こそが狂人であるという前提の上で、自らを極限までシリアルキラーに近づける努力をすべきなのだ。現実について書こうとするならば。
それが若い頃から殺人鬼ものにこだわってきた最大の理由である。
その長年の努力も実を結んで、今日、ついに生涯最高のコトバを紡いで、ラストシーンの設定がついにバシッと決まった。
酒鬼薔薇聖斗をアントニー・バージェスの「時計じかけのオレンジ」のアレックスに重ね合わせて、
主人公にボイジャーを思い出させたことだけはこっそり明かしておこう。
「時計じかけのオレンジ」は熱心な読者なら、アレックスを矯正させたルドヴィコ療法と同じ性質のものが酒鬼薔薇聖斗を演じた少年Aに適用されたことは十分想像がつくことだろう。実際、そうやって犯罪を犯した少年少女は社会復帰を果たすのである。
ボイジャーはご存知の通り、1977年にNASAによって打ち上げられた無人宇宙探査機である。そしてゴールデンレコードと呼ばれるレコード盤が収められており、地球の言語、自然音、画像が記録されている。
それは異星人、あるいは未来の人類に向けてのメッセージとされている。
なぜ、少年Aをモデルにした主人公はボイジャーを思い出したのか?上の討論の引用文をよくよくお読みつつ、色々想像してみるといい。その想像を上回る衝撃の結末を提供出来たなら、私の作品は成功したといえるだろう。
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