このもつれあった灰色の肉体たち、それが彼らだ。黙って、さだかならぬ姿、おそらくお互いにしがみついているのだろう、頭を上っ張りのなかにつっこんで、ひと塊になって横たわっている、夜のなかに。彼らはもう湾の沖遠くにいる。レミュエルはオールをオール受けに差したままだ、オールが水面にあとをひく。夜はちりばめている、ばかげた
ばかげた光のかずかずを、星や、かがり火や、浮標や、陸地の灯火や、丘でははりえにしだを焼いているかすかな火影や。マックマン、わたしの最後の、わたしの持ち物、忘れてはいない、彼もそこにいる、おそらく彼は眠っている。レミュエルは
レミュエルは責任者だ、彼は血の痕のけっして乾くことはない斧を振り上げる、しかし人を打つためではない、彼はだれをも打たないだろう、彼はもうだれをも打たないだろう、彼はもうだれにもさわらないだろう、斧でも、あるいはそれでもあるいはそれでもあるいはあるいは
あるいは斧でもあるいはハンマーでもあるいは杖でもあるいは拳でもあるいは心のなかでもあるいは夢のなかでもつまりけっしてかれはけっして
あるいは鉛筆でもあるいは杖でもあるいは
あるいはひかりひかりつまり
けっしてそこだかれはけっして
けっしてなにものをも
そこだ
もう
サミュエル・ベケット 「マロウンは死ぬ」 高橋康也訳 より最後ページを抜粋
昨日は土方巽先生の言語トランスを紹介したが、今日はサミュエル・ベケットの言語トランスを紹介しよう。
演劇畑の人なら、というより一般的には「ゴドーを待ちながら」で知られているノーベル賞作家ではあるが、ベケット本人はそういった名声とはかけ離れた、「言語吐息」に埋没した人であった。
吐息のように、途切れがちに言葉を紡ぐ。
膨大なボキャブラリーを駆使して圧倒的に言葉を編み込んだジェイムズ・ジョイスと違って、(ジョイスの弟子であった)ベケットは最低限のボキャブラリーで、モノローグの言語空間を編み出したと見る人が多いが、私はジョイスと同様に言語をストイックに彫塑していった、要するに書き方は違えど、根っこは同じだったと見ている。
土方巽先生は思いつくままにしゃべり続けたが、ベケットは思いつくままに言葉を選び、言葉を分解し、自動的に(意図的に見えるかもしれないが)、リズミカルに並べ続けた。これはジョイスが「ユリシーズ」で見せた基本的な技法である。ベケットはさらに極端に絞っていっただけなのである。
その結果。
上に引用した「マロウンは死ぬ」の終わり方のように、途切れ、途切れで一息ついて息絶えたように、言語空間は“精緻を極めた”。それは後の「モロイ」、「名づけえぬもの」、「事の次第」、「伴侶」でさらに精緻を極めることになる。
中学生の頃、ある演劇関係者が私のような聴覚障害者はベケットだけを読むべきである、などと発言したのを受けて、図書館で「マーフィー」から読み出し、この「マロウンは死ぬ」で確かにそう思うのも無理はないと感心しつつ、ひどい言いがかりだと呆れ、世のなかのあれやこれやと隔絶した言語トランスのリズム感に酔うことを覚えた。
それ以来、私の言葉を切り詰めるための自主トレーニングの負荷に役立っている。
何かについて言葉で物語った時点で、言葉は乱雑になるのである。
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