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2012年03月21日20:31

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「魔法少女まどか☆マギカ」は東映の香りがする。後編

葛藤の物語

 任侠映画の主人公としてお竜は特異である。だがそれは、彼女が女であるからという同語反復的な理由で片付くものではない。お竜の演出には、女を排除してきた任侠映画の枠のなかでどうすれば女が主役として成立するのか、という意識がつねに作用している。それは、お竜のお披露目となったシリーズ第一作・山下耕作監督「緋牡丹博徒」(1968)の冒頭から明らかである。
 ファーストショットにおいて、カメラにむかって仁義を切るお竜のシルエットが緋色を背に浮かび上がる。次第にカメラがお竜に近づくと照明も明るくなり、彼女の姿が呈示される。彼女が仁義を終えると、ショットが変わる。白い牡丹の花が登場し、タイトルが赤字で「緋牡丹博徒」と書かれる。すると題字は白に、牡丹の花は赤に色が変わる。続くショットでは、男たちがずらりと居並ぶ賭場の真ん中に座し、手本引きの親を務めるお竜が登場する。強烈な照明が博徒と賭場だけに当てられているため、周囲はすべて闇に沈み、博徒たちがまるで宙に浮かんでいるようにもみえる。そこに藤純子が歌う主題歌「緋牡丹博徒」が流れ、スタッフ・クレジットが登場する。
 「緋牡丹博徒」の冒頭部は、斉藤綾子が「女渡世人のお竜と女優・藤純子が、自ら男の世界に入ることに対する観客に向けた襲名挨拶のようなもの」と指摘するとおり、通常の任侠映画なら要請されない演出である。そして、女を任侠映画の主役にするためのこの演出が、視覚と音響の両面においてリアリズムのコードを大きく逸脱していることも重要である。いったいそれがどこなのか固定できない緋色の抽象的な空間、闇に浮かぶ賭場。渡世は「まどか☆マギカ」の魔女の結界のごとき異界である。この奇妙な空間は、その後回想によって語られるお竜がお嬢さんであった頃――とりわけ屋外で撮影された明るいショットが印象的である――とは明確に対比をなし、彼女の異界への参入を雄弁に伝えている。ただし、彼女自身が露悪的な異形の見世物になってはいけない。あくまでも彼女は男性顧客の理想が託された任侠映画の主人公なのである。そのため、賭場でもお竜の左右を固める強力が肌を大胆に晒しているのに対し、彼女は地味な着物を几帳面に着込んで、肌の露出を最小限に押さえている。
 冒頭で明示されたお竜の異界への参入という主題は彼女が渡世人になったいきさつを要請し、プロットを進めていく。この点において、お竜は古典的任侠映画の主人公とは異なる。思えば不思議なことであるが、任侠映画において男が渡世人である理由は特に問われない。彼らがドスを振り回すのはジャンルの大前提である。いっぽう、お竜には回想が用意され、渡世に身を投げたいきさつが明かされる。矢野一家の娘に生まれたお竜は、どこに出しても恥ずかしくないよう、お茶にお花、料理に裁縫、そして小太刀を仕込まれてきた。死んだ母の悲願である堅気の良家への嫁入りも目前というときに、父が辻斬りに殺される。その後、縁談は破談になり、一家は解散の憂き目にあう。彼女はひとりで父の仇を討ち、一家を再興することを決意する。白い牡丹を前にして、お竜は「お父ちゃん、許してな。あたしは今日から男になっとよ」と語る。そのとき白い花は赤く染まり、回想は閉じられる。白から緋色へと変化する花は先述のタイトル・バックの演出と呼応し、お竜が身を投じる世界が異界であることをあらためて強調すると同時に、その選択が苛烈なものであることを表現する。一人娘のお竜は一家の後継者でありつつも、女であるために正当性を主張しきれない。そのジレンマを解消するために、彼女は断腸の思いで男になったのである。
 お竜が博徒になった訳を語ることは彼女の逡巡と決断を語ることである。結果、任侠映画がそれまで不問に付してきた渡世人の内的動機が前景に押し出されることになった。それは、「まどか☆マギカ」において、アウトローに堕ちた魔法少女たちが舐める辛酸が詳らかにされることで、物語が進んでいくことと通底している。
 これまで「先天的」魔法少女であれ、「後天的」魔法少女であれ、魔法少女たちはジャンルのコードに従って、さしたる葛藤もなく魔法少女としてあったし、魔法少女になった。しかし「まどか☆マギカ」は違う。華麗に変身し舞うように戦うため「魔法少女もの」にもっともふさわしく見えるマミですら、魔法少女になった動機は大変重く、孤独な戦いの日々に疲れも感じているため、まどかとさやかにはよく考えて魔法少女になってほしいと諭す。そして、誰よりも魔法少女になるまでの逡巡が長く、また誰よりも強く魔法少女になったことを後悔していたのは、タイトルロールのまどかである。終盤まで、彼女は友が破滅していくのを目の当たりにして魔法少女になれない。さらには、別の時間軸で自分が魔法少女になることを阻止してくれと、ほむらに頼んでいることも明かされる。これまでジャンルが表沙汰にしなかった魔法少女の逡巡と屈託と後悔を徹底的に描き込む「まどか☆マギカ」は、「魔法少女もの」の転覆を目指しているのだろうか。結論を出す前にお竜に戻ろう。

ジャンルの肯定

 お竜が渡世人になったことに対していかなる屈託を抱えていても、彼女の存在は任侠映画を異化したりはしない。「緋牡丹博徒」の最後、父の仇を取ったお竜は、またもやカメラを直接見据えて、矢野組二代目襲名の口上を述べる。そのとき、彼女が渡世という異界をみずからの日常としたことは、彼女がいる座敷が緋色の異空間ではなく、リアリズムに根ざしていることからもわかる。二作目以降も、お竜の背景が緋色に染まるときがある。しかし、もはや緋色は異界の象徴ではない。それは男たちに一歩も退けをとらない渡世人の矜持を示す。シリーズ第二作である鈴木則文監督「緋牡丹博徒 一宿一飯」(68)にはこんなシーンがある。卑劣な手段で兄貴分を破滅させそのシマをかすめ取ろうとする悪玉に「世間様の裏街道をいくあたしたちにゃ、一番大切なのは仁義です。せめてこれだけの筋をまもらにゃ、あたしたちは本当に人間のクズです」と説き、男たちを黙らせる。そのとき、緋色の空間を背にして立つ白い着物姿のお竜は気高い。「緋牡丹博徒」は女を主人公に捉える変格任侠映画である「にもかかわらず」、仁義を称揚し、任侠映画そのものを肯定する。
 「まどか☆マギカ」も同じことを「魔法少女もの」に対して行う。ただし「まどか☆マギカ」の場合は、お竜の場合よりもいっそう強烈である。魔法少女になることを躊躇し続けたまどかがほむらの目的を知り、全ての魔女を生まれる前に消し去り、全ての魔法少女を救うことを願う。彼女が覚悟をひとたび決めると、「魔法少女もの」に対するあらゆる転倒が一挙に正される。願いをひとつ必ず叶えてやるという破滅の道への誘惑すら正当化され、まどかはまったき肯定とともに魔法少女になり、「まどか☆マギカ」は魔法少女に「ならない」物語から、魔法少女に「なる」物語へと見事に変転する。こうした転倒によるジャンルの肯定というダイナミズムを、変格「魔法少女もの」「まどか☆マギカ」は変格任侠映画「緋牡丹博徒」シリーズと共存しているのだが、両者を接近させるのは任侠という想像力との緊張関係なのである。

魔女のほうへ

 ただし、「まどか☆マギカ」は「緋牡丹博徒」シリーズをなぞるばかりではない。「まどか☆マギカ」は異形の女、すなわち魔女をめぐる問題を提起させ「緋牡丹博徒」シリーズを大胆に継承している。それを述べてこの稿を終えよう。
 「緋牡丹博徒」シリーズには、お竜のほかに渡世という異界に生きる女性が数多く登場する。女いかさま賭博師、父と婚約者を陰謀により失ってしまった娘(「一宿一飯」)、盲目の娘を抱えた女渡世人(「緋牡丹博徒 花札勝負」(69))など、彼女たちが男から痛めつけられる様はエログロのスペクタクルを形成する。お竜の陰画ともいうべき彼女たちは任侠映画における他者がやはり女であることを示すいっぽうで、お竜の相手役として登場する男性を凌ぐ存在感を示し、お竜を正義の戦いに駆り立てる。このように「緋牡丹博徒」シリーズは、他者である女の復権とでもいうべき主題を任侠映画に密輸入している。そして「まどか☆マギカ」は、この主題を魔法少女の陰画である魔女との関係において前景化させた。
 劇団イヌカレーによる魔女とその関連物の視覚的造形はアニメが採用するリアリズムから大きく外れているために、視聴者の目を惹きつける。そこに、異形の女をめぐるイメージが羅列されていくマックス・エルンストのコラージュ小説「百頭女」(1929)の影響を見取ることは難しくない。とはいえ定まった解釈には到達しないエルンストの作品と「まどか☆マギカ」が異なるのは、ファンたち、それも国外の男性ファンが主体となってウェブ上で知恵を出しあった結果、独自の文字体系までもが制作陣が予想もしなかった速度で解読されたことである。とりわけ第三話に登場するマミを喰う「お菓子の魔女」については、視覚的語彙と演出が徹底的に検討され、彼女がどんな魔法少女であったのか、いかにしてキュゥべえの誘惑に屈したのかが推測された。結果、「お菓子の魔女」は恐るべき敵でありながらも、シンパシーの対象にすらなっている。こうした謎解きによって、劇中ただ寡黙に人間に仇をなす魔女の過去は語りのレベルに呼び戻された。そして、さらに興味深いことに、ファンが行う解釈はただの深読みには留まらず、全ての魔女の救済を願うまどかのヒロイズムと呼応し、そのドラマツルギーに活力を与えてもいる。
 解釈という回路を通して、魔法少女たちの、さらには魔女たちの物語に参入する男性は、すくなくとも二つのことを示している。ひとつは女児向けのジャンル「魔法少女もの」が成熟を経てかくも遠くに来てしまったこと、そして、もうひとつは、ジェンダーによる区分けと棲み分けが効力を示すようにみえるジャンルにおいても境界は常に侵犯され、揺るがされていることである。それゆえ、かつて男性がその理想を託した女渡世人が女性にとっても非常に魅力的であるのと同じく、男性向けのいわゆる「萌えアニメ」というラベルのもとに生まれた魔法少女たちに女性がまた熱狂してもそれは奇矯なことではけっしてないのである。

・・・・・・

私が劇団イヌカレーの世界観に懐かしさをも感じたのは、中学生の時にコレクションしたマックス・エルンストの「百頭女」、「慈善週間」、「カルメル修道会に入ろうとした少女の夢」が頭をよぎっていたからなんですねえ〜。

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