まず、ハード・キャンディの意味合いは、映画「ハード・キャンディ」以降、劇的に変わった。
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=324574
それまで勃起だのヤクだののスラングの意味合いから、ハードなロリータの意味合いになったのである。
それにイメージ的に追加したのが、マドンナのアルバム「ハード・キャンディ」だ。
マドンナは女のタフさ、甘美さは同一のものととして、ハード・キャンディとネーミングしたとのことだが、ロリータとしての少女もまた決して甘いだけではないという「記号化」に拍車をかけることになった。
我が国では、内山亜紀、吾妻ひでおなどに始まる甘いロリータものが蔓延したが、町田ひらく、雨がっぱ少女群というハード志向のロリータ作家が産まれている。
少女のリアルな美。リアルな感情。リアルな残酷さ・・・
欧米において、そういう美に固執しているのが、イタリア出身のフェルナンド・カレッタである。
ごらんのように。
カレッタ描くロリータは、おしりがメインである。
おしりにこだわるのは、イタリア人の国民性だ。イタリアは母の国である。イタリアの母は、古代の大地の女神のごとく、でっぷりと太って、巨大な乳を備えている。
それに合わせて、少女は未熟な乳の代わりにおしりを突き出すのだ。
そのおしりの描き方を視よ。
そこに少女の甘さを感じるだろうか?背伸びをしようとする可愛らしさがあるだろうか?
大人の男を蠱惑するに十分なフェロモンが漂っている。
無論、カレッタの筆ならではの表現で、現実のイタリア人少女はこんなにムチムチしていないから真に受けぬように。笑。
私が言いたいのは、町田ひらく、雨がっぱ少女群、カレッタのように、ハード・キャンディとしての少女の美はこれからも追求されるだろうということだ。
シャレにならない少女誘拐殺人、その他の犯罪を知った我々の価値観、記号観のなかで、少女(ロリータ)はもはやかつての甘いイメージには戻らない。
傷つきやすいイメージ、可憐なイメージはとうの昔に死んだ。
もとより、イマドキの少女たち本人たちがそんなイメージを求めていない。
即ち、ハード・キャンディこそは、少女の現在進行性に合わせた、リアルな創作ジャンルなのである。
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