絵画鑑賞において、私は「フランダースの犬」のネロが大聖堂にて出会うルーベンスの絵というシチュエーションこそが理想と考える。
ウェブでありとあらゆる情報を目の当たりに出来る今、ネロと同じような感動を味わえるのは不可能だからこそ、ああいうのはますます理想になっていく。
しかし、それに近い“感動”を現代人の我々でも味わえる秘訣はあるのだ。
まず最初にやってのけたのが、三島由紀夫であった。
彼は「仮面の告白」で書いているように、グイド・レーニ描く聖セバスチャンの殉教図に性的興奮を覚え、自慰に耽っている。
こういう出会いもまた正しい絵画鑑賞のひとつなのである。
私は絵画で自慰に耽ったことは数え切れないくらいあるので、一枚、一画家に絞れないのだが、そこを何とかじっくり絞め殺して消去法で消していくと、二枚の絵が浮かび上がってくる。
ダヴィンチの「レダと白鳥」、ギュスターヴ・モローの「オイディプスとスフィンクス」だ。
前者は小学二年生の秋に親戚が使っていた美術の教科書で初めて出会って以来、ダヴィンチ描く女体のふくよかさと足下の“卵から生まれる子供たち”の神秘性に心ざわめくものがあって、しきりに股間を膨らませたものだ。
後者は中学一年生の春に図書室の美術図書で見て、女体の幻獣に迫られる美男というシチュエーションに、ありとあらゆる分野の性的興奮を覚え、借りてきて家で取り憑かれたように模写することで、オイディプス側、スフィンクス側に我が身を置き換えて何度も射精した。
こうして思い返してみると、どちらかというと、モローの方が衝撃的だったかもしれない。
考えてみると。
この秘訣は私や現代人に限らず。
ネロも想像上のルーベンスで自涜したことは容易に思い浮かべられるし、発表当時のその時代の人々も脳内射精は鼻孔から溢れるほどであっただろう。
一枚の絵画の前で快感に身をよじり、悶死する・・・
それこそが画家以上に、絵画そのものが求めているほんとうの価値なのだと私は思う。
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