第二章 智絵
七階建ての団地の四階、外側の真ん中に住む智絵は、年老いた母親と二人暮らしをしている。
夫とは死別したばかりで、子供は息子が一人いるが、殺人を犯したかどで刑務所に入っている。先日とうとう五十路に突入し、近くの病院で続けている清掃のパートはベテランの域に達した。
息子の起こした事件のおかげで、智絵は世間に顔向けが出来ない心持ちであったが、元々、生まれた時からこの団地でひっそりと暮らし、目立たないように生きてきたので、今まで通りの生活を続ければよかった。
智絵が三歳の時。
三つ年上の兄が団地内で行方不明になり、当時は全国規模のニュースで連日発見への協力を呼びかけていたが、現在に至るまで見つからないままである。
智絵はもう死んだものと諦めているが、母親は認知症を発症してからなお、より精力的に、団地の各戸のドアを叩いて怪しい住人がいないかどうかを確かめて回っていた。
夫は地方の出だったが、地元の団地にまつわる噂を面白がっていて、うっかり私たちに話してしまったものだから、母親がますますああなってしまったと智絵は亡き夫を恨んだ。
噂とは。
団地には人間に化けた巨大な蜘蛛が巣くっていて、子供をさらって食べるという実に他愛ないものだったが、母親にとっては息子を奪った憎い相手がやっと形として見えてきたわけだった。
「利雄、うちの利雄を知りませんか?」
曲がった身体を無理矢理引きずり、ガクガク震えながらドアを叩くその姿は、団地の子供たちから、皮肉にも「蜘蛛ばばあ」とあだ名された。
としお〜、としお〜・・・
パートから帰ってくると、団地のどこかから母親の悲しげな呼び声が響くのを耳にし、事情を知る管理人さんと他の住人たちの会釈に頭を下げて、声を辿って階段を上がっていった。
そこで。智絵はそれまで全く他人事であった恋、お見合い結婚であった夫に感じたことのない、恋慕の情を電撃的に感じた。
階段の上ではっと息を呑むような、美しい男の子が座り込んで手で涙をぬぐいながら泣いていたのである。
最初は母性をくすぐられたと思った。しかし、理性的な胸の奥からのものではなく、腹の底からの狂えるそれは、明らかにおんなとして燃え上がるものであった。
智絵は必死でまあという顔をしたが、顔の奥では濡れた舌で唇をみだらに舐めた。
・・・・・・
智絵のイメージは岩下志麻さんで。
団地を舞台にした、いわゆる都市伝説は小さい頃からゲップが出るほど聞きましたが、いちばん怖かったのは、団地に巣くう人さらいでしたね。子供が廊下を歩いていて、いきなりドアが開いて、子供がなかに引きずり込まれて、ドアが閉まる・・・
どの部屋か分からないだけに、リアルな恐怖がありました。
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