2004年09月19日(日)
墓の上で眠る。
以前、三島由紀夫の墓の上で中出しセックスをしたことを書いたけれども、当日記の読者の一人である、知り合いの芸能人から、澁澤龍彦先生、あるいは最近亡くなった種村季弘先生の墓にも何かするつもりと聞かれたので、ただ無言でにっこりと笑ってみせた。
私は、浅草のお寺で生まれ、物心がつくまで、そこで育った。
と、同時に、幼児期の半分を、新潟は妙高にある母方の実家で過ごした。
つまり、お寺で仏教独特の死生観を学び、母方の実家にて祈祷独特の死生観を吸収したわけだ。
そんな私にとって、墓は、当然、ただの石ではない。
しかし、何か霊的な特別のものでもない。
仏教、神道の両極の土壌に親しみすぎると、奇妙な話だが、死者の世界は私にとって、遠い世界ではなくなるのだ。
いわゆる、現世(うつしよ)と、幽世(かくりよ)の境界が、私の中では消えてしまうのである。
まあ、幽霊を目撃するのは、たまたまなのだが、ここでは考え方の話だから、そのつもりで。
で、私が墓に執着するのは、そこに「メッセージ」が埋もれているからだ。
廃墟などを眺めてうっとりするという意味合いも含まれているが、やはり、幼児期に身につけた、祖父たちの教えの影響が強い。
まず、お寺の、我が祖父は、「墓をじーっと見ていると、そこに眠っている人たちがどんな人生を送ってきたのか分かる」と、私をわざわざ無縁仏の墓の前に座らせて、一晩中眺めることを命じた。
まだ、幼児だった私は、素直にもずっと頑張っていたらしいが、翌朝見に行くと、墓石の前にうずくまるようにして眠っていたそうだ。
今の私は全く覚えていないのだが、祖父が「何か見たか?」と聞くと、「周りに誰かがいっぱいいた」と答えたそうである。
子供のことだから、そんな気がしただけかもしれない。
次は、新潟にて。
祈祷師の中心人物だった、大伯父、大伯母の二人は、よく「墓眠り」をやっていた。
遺言を遺す前に死んでしまった人などを「呼び戻す」ために、死者の霊が憑依するまで、墓の上で眠り続けるのである。
大伯母は、私をものすごくかわいがっていて、多少、頭が変になっていたが、幼い私にひとつの約束を誓わせる時は、はっきりした言葉づかい、真剣な顔になっていた。
もう終わったことだから、明かしてしまうが、大伯母は、私に、自分の墓の上で寝ることを誓わせたのである。
私の口から語られる「霊言」が、大伯母の遺言だったのだ。
遺言執行人としての、当時の、直江津在住の弁護士先生に、高校の夏休みに再会したことがあったが、先生は私の顔を見るやいなや、まるで死んだはずの人間に出くわしたような顔をしたものだ。
あの時の顔は決して忘れない。
そんなわけで、墓を特別視しているというよりは、私という人間の一部分といった方が的確な表現であろうと思う。
子供の頃から墓石に囲まれていたわけだし・・・。
こういう「墓眠り」は、欧米にもあるらしく、ウェールズの魔術サークルの同志のヘイワード氏は、即答一発、「Grave Sleeping」だねと教えてくれた。
キリスト教以前の、古代ローマ系の、原始宗教においては、祖先の霊と交流するための手段として、墓の上で眠ることをよく行っていたのだそうだ。
私は思う。
それが、霊的なものであれ、原始的なものであれ、人間の心そのものが、文明社会で割り切れないほど、現実では縛られないものなのだろうと。
簡単なことである。
人間は現実逃避をする。
同時に、現実逃避から、現実を超えた、何かが生まれる。
今日はここまで。
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