坂井三郎をして「日本海軍で最も強靭な戦闘機乗りだった」と言わしめ、「空の宮本武蔵」と称賛された撃墜王・武藤金義。太平洋戦争における撃墜数は30機。
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武藤 金義(むとう かねよし)
1916年(大正5)8月18日〜1945年(昭和20)7月24日
1935年(昭和10)6月1日、呉海兵団に入団。1935年(昭和10)12月23日、第32期操縦練習生を拝命。1936年(昭和11)7月、同課程卒業。大村航空隊での延長教育を受ける。
1937年(昭和12)10月、第13航空隊に配属。上海に進出し支那事変に参加。同年12月4日、南京上空で中華民国国軍のI-16戦闘機1機を撃墜、これが初戦果となった。その後、第12航空隊に異動するも、南京、南昌、漢口攻撃などで活躍を続け、中華民国軍機を合計5機撃墜した。1938年(昭和13)10月、内地に帰還。
1941年(昭和16)9月、第3航空隊に配属。同年12月8日の太平洋戦争開戦時は、横山保大尉の2番機としてフィリピン・ルソン島のクラークフィールド飛行場攻撃に参加した。1942年(昭和17)4月には元山海軍航空隊(11月に第252航空隊に改名)に配属。ラバウル航空隊の一員としてソロモン航空戦を戦い抜く。
1943年(昭和18)11月、横須賀海軍航空隊の教官を務める。1944年(昭和19)6月、横空派遣部隊として八幡空襲部隊に参加し、硫黄島に進出。7月3日、4日の米艦上機部隊迎撃に参加。空襲の被害で航空機を失い派遣部隊は内地に帰還。
1945年(昭和20)2月17日、厚木基地上空に飛来したグラマン編隊のうち12機に、オレンジ塗装の紫電改単機で挑み2機の撃墜を報告。敵を集団から一機ずつ誘い出して撃墜する様は、小説「宮本武蔵」の一乗寺下り松の決闘を思わせる戦いぶりであり、その時から海軍内で「空の宮本武蔵」の異名で知られるようになった。
1945(昭和20)年6月、第343海軍航空隊戦闘301飛行隊(通称新撰組)に異動する。同年4月15日に戦死した杉田庄一上飛曹の代わりに隊長菅野直大尉の護衛が務まる人物として、司令の源田実大佐が武藤の配属を希望したためである。
1945(昭和20)年7月24日、21機で10倍以上の米機動部隊艦載機を迎撃するため、大村から出撃。豊後水道上空の交戦で敵編隊に攻撃を加え菅野隊長を守り切ったが、武藤は未帰還となった。享年29。戦死時の階級は少尉、戦死による特進で中尉に昇進。
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