塚原 二四三 (つかはら にしぞう)
1887年(明治20)4月3日〜1966年(昭和41)3月6日
日本海軍で最後に大将に昇進した2人の軍人の一人。
もう一人は海兵1期後輩の井上成美である。
※背景画像:台湾・高雄基地を発進直前の三空零戦隊
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福井県生まれ、本籍は山梨県中巨摩郡三恵村(南アルプス市)で甲府中学(山梨県立甲府第一高等学校)を経て1908年(明治41)11月に海軍兵学校36期を20位の成績で卒業。同期に沢本頼雄、南雲忠一らがいる。1918年(大正7)12月1日には海軍大学校甲種学生を拝命(18期)、1920年(大正9)11月26日に卒業した。
1921年(大正10)2月25日に横須賀航空隊附に就任後は航空畑に転じる。1926年(大正15)1月15日に鳳翔副長、1927年(昭和2)4月5日に航空本部教育部員、1932年(昭和7)11月28日に航空廠総務部長、1933年(昭和8)に赤城艦長、1934年(昭和9)11月1日に航空本部総務部長と、航空教育や航空部隊を歴任した。
支那事変(日中戦争)勃発後の1937年(昭和12)12月1日、空母部隊である第2航空戦隊司令官に任ぜられたが、半月後には艦載機からなる現地派遣部隊の第2連合航空隊司令官へ移り、最前線での指揮を始めた。さらに1938年(昭和13)12月15日には、陸上攻撃機からなる第1連合航空隊司令官に任ぜられたが、相次ぐ爆撃で機体を消耗したために、内地で再編することになった。
1939年(昭和14)10月3日、塚原ら航空隊首脳部は、再編した第1連合航空隊を漢口で出迎えたが、中国軍の奇襲爆撃を受ける。この爆撃によって塚原は左腕切断の重症を負い、翌年4月まで療養生活を余儀なくされた。療養中の同年11月15日に中将へ昇進。
九死に一生を得たが、艦上での勤務は困難と判断されてしまった。塚原ほど航空に精通した指揮官は他にいなかったにも関わらず、空母機動部隊指揮官に任ずることができなくなり、塚原と同期ながら航空と全く縁のなかった南雲忠一に空母機動部隊を託すことになる。
1941年(昭和16)9月10日に第11航空艦隊司令長官に就任。同年12月、太平洋戦争勃発。開戦時はフィリピン・マレー攻略の航空支援、マレー沖海戦に参加した。
1942年(昭和17)1月下旬から第11航空艦隊はラバウルに進出を開始し、ソロモン海域を中心に活動するが、同年10月、マラリアに罹患したため、後任を草鹿任一中将に託し、内地に帰還した。同年12月1日、航空本部長に就任。1944年(昭和19)3月1日、航空本部長と軍令部次長を兼任するが、同年7月29日、航空本部長の専属に戻った。
1944年(昭和19)9月15日、内戦部隊の頂点にある横須賀鎮守府司令長官に就任。すでに同期の出世頭だった沢本頼雄が大将に昇進し、南雲も戦死と引き換えに大将の称号を贈られたこともあり、塚原も内心は大将昇進を望み始めていた。
しかし当時の海軍次官・井上成美中将は、井上本人も含めて戦時中の大将昇進を凍結する「大将不要論」を掲げていた。時に怒りも露わに井上を罵り、時に溜息混じりに嘆きつつ、塚原は大将への憧れを周囲に吐露していた。
1945年(昭和20)5月1日、昇進を阻む最大の障害だった井上が海軍次官を降りたことによって、5月15日に井上と同時に、念願の大将に昇進するのだが、栄誉の代わりに現役を退くことになる。
かねてより米内光政海軍大臣は、豊田副武大将を軍令部総長に、小沢治三郎中将を連合艦隊司令長官に任命し、統制の取れた状態での終戦工作を望んでいた。しかし海軍には、「後任が先任を指揮することは厳禁」とする慣例が根強かった。海兵37期の小沢を昇格させるには、1年先輩にあたる塚原・横須賀鎮守府司令長官と沢本・呉鎮守府司令長官が障害となった。塚原と沢本は説得を受け入れ、鎮守府司令長官を辞任した。
1945年(昭和20)8月、終戦。同年10月15日、予備役編入。
1966年(昭和41)3月、病没78歳。
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