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空母蒼龍

空母蒼龍

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詳細 2022年12月21日 20:25更新

蒼龍の名前は、帝国海軍の艦船としては御召艦蒼龍に続いて2隻目。戦闘詳報には、「蒼竜」の漢字表記も使用されている。なお戦後、この名称は海上自衛隊のそうりゅう型潜水艦の1番艦「そうりゅう」にも使用されている。

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蒼龍は建造に至るまで、航空巡洋艦も検討されるなどの紆余曲折を経て、最終的には先行艦(鳳翔、赤城、加賀、龍驤)の運用経験に基づいて設計、日本初の本格的空母として誕生した。また、台風で艦艇に被害が出た第四艦隊事件の影響で、船体を輪切りにしたり、また工事中に搭載予定航空機の機種や機数も幾度か変更されたため、艤装には困難が伴った。

艦橋は右舷前部にあり、右舷中部に下方排出式の煙突を2つ持つ。格納庫は2層式で、エレベーターは3基。15万馬力の機関を搭載した蒼龍の最大速力は34.9ktを記録し、日本海軍では最も高速の航空母艦であった。

また、排水量制限のために搭載機数は大型空母(赤城、加賀)より少ない。少しでも格納庫スペースを確保するために、ボイラーへの給気や機関室の排気などは船体中央付近の舷側に外付けされた箱型の通風筒で行われており、蒼龍、飛龍の外見上の特徴となっていた。

蒼龍には25ミリ機銃は14基あったが、うち3基は艦首に搭載。艦首に兵器搭載は本艦が初である。 後に日本空母の標準装備となる艦尾の着艦標識、滑走静止装置が建造当初から設置されたのは蒼龍が初めてであった。

中型空母としての性能は申し分ないものだったが、他の日本空母と同様にダメージコントロールの面では米英空母と比べ劣り、3箇所のエレベーターの前後に防火鎧扉が設けられ、炭酸ガスで火災消火する方式である。さらに航空機格納庫は密閉式で爆風を逃せず、ミッドウェー海戦における喪失の原因となった。こうした欠点は、可能な限り多くの航空機を搭載し、搭載戦闘機によって敵機を排除しようという発想からきているものであった。

1934年(昭和9年)11月20日、空母蒼龍は呉海軍工廠で起工された。書類上では1935年(昭和10年)1月23日に進水したことになっているが、実際には12月23日に進水した。

1937年(昭和12年)8月16日、別府明朋大佐は蒼龍初代艦長に任命される。 11月11日の公試では排水量18871トン、機関出力15万2483馬力で34.898ノットを発揮した。

1938年(昭和13年)12月15日、蒼龍は第二航空戦隊に編入される。1939年(昭和14年)11月15日、準同型艦飛龍の編入にともない、二航戦は空母2隻(蒼龍、飛龍)および第11駆逐隊(初雪、白雪、吹雪)という戦力になる。

1940年(昭和15年)10月11日、横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に二航戦の僚艦とともに参加。11月1日、山口多聞少将が第二航空戦隊司令官となる。

1941年(昭和16年)4月10日、第二航空戦隊は新設された第一航空艦隊に編入される。 太平洋戦争開戦前の7月には南部仏印進駐作戦の支援を行った。 10月6日、柳本柳作大佐が蒼龍の艦長に任命された。

1941年(昭和16年)12月、蒼龍を擁する第一航空艦隊(長官は南雲忠一中将、参謀長は草鹿龍之介少将)は、太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃に参加。

作戦前、軍令部からの要請に応じて、蒼龍・飛龍・赤城を外し、航続力の優れた空母三隻(加賀、翔鶴、瑞鶴)に最も優秀な第一航空戦隊、第二航空戦隊を乗せて作戦を行う案が作られたが、この案を知った第二航空戦隊司令官山口多聞少将は、今まで訓練してきた人と飛行機を取られ、母艦だけ残されては部下に会わす顔がない、攻撃の後は置き去りにしてくれて構わないと反対した。第一航空艦隊は最終的に空母6隻案でまとまり解決している。

真珠湾までの道のりは燃料について問題があったが、それを解決するため軍務局の暗黙の了解を得て、南雲長官は自身の責任において軍紀違反である過剰な燃料の搭載を行い解決した。

第二航空戦隊所属の艦載機部隊は、艦上攻撃機隊32機が海軍航空隊出水基地、艦上爆撃機隊36機が海軍航空隊笠ノ原基地を訓練基地として、そして第二航空戦隊ならび第一航空戦隊所属の艦上戦闘機隊72機は海軍航空隊佐伯基地を訓練基地として、錦江湾や志布志湾、佐伯湾で演習を行い、1941年(昭和16年)11月16日佐世保基地にいた加賀以外の第一航空艦隊(南雲機動部隊)空母5隻は佐伯湾にて艦載機部隊を各陸上基地から離陸させて着艦収容した。

その時の佐伯湾にはハワイ作戦に参加するほとんどの24隻の艦船が集まっており、蒼龍には第二航空戦隊旗艦として山口少将が座乗し、翌17日午後に山本五十六連合艦隊司令長官の視察を受けて、機動部隊旗艦(赤城)に集合した搭乗員達へ真珠湾攻撃の全貌が明かされた際には、母艦に戻った搭乗員達の間で酒宴となり、山口司令官や柳本艦長を胴上げして気勢をあげている。

各艦船は機動部隊としての行動をごまかすため、11月18日午前4時に第一水雷戦隊旗艦の軽巡阿武隈と麾下の駆逐艦9隻(第18駆逐隊《霞、霰、陽炎、不知火》、第17駆逐隊《谷風、浦風、浜風、磯風》、第五航空戦隊《秋雲》)が動き出したのを皮切りに、時間をずらしてバラバラに佐伯湾を離れ、艦隊が最終集結する千島列島の択捉島単冠湾を個別に目指した。

艦隊集結予定日通り11月22日に単冠湾へ入り、11月26日南雲機動部隊の一翼として単冠湾を出港し艦列を連ね、一路ハワイ真珠湾へと向かった。真珠湾攻撃は戦艦多数を撃沈する大戦果を挙げた。蒼龍は第二波攻撃隊から零戦3機、九九艦爆2機が未帰還となった。

南雲機動部隊は所在不明の米空母エンタープライズやレキシントンを捜索しながら日本への帰途についた。蒼龍飛行隊長江草隆繁少佐が山口多聞少将や柳本艦長を通じて米空母の徹底捜索と撃滅を進言し、一航艦の長官南雲中将や参謀長草鹿少将が艦隊の保全を優先したとする主張もある。

同時期、ウェーク島攻略にむかった日本第四艦隊(司令長官井上成美中将:旗艦鹿島)・第六水雷戦隊(司令官梶岡定道少将:旗艦夕張)は島を守るアメリカ海兵隊の反撃によって思わぬ苦戦を強いられ、駆逐艦2隻(如月、疾風)を撃沈され撃退された。

ハワイからの帰投中だった第二航空戦隊はウェーク島攻略の支援を命じられ、第八戦隊司令官阿部弘毅少将指揮下の8隻(第二航空戦隊《蒼龍、飛龍》、第八戦隊《利根、筑摩》、第17駆逐隊第1小隊《谷風、浦風》)は南雲機動部隊主隊から分離、12月18日より南洋部隊(指揮官井上成美第四艦隊司令長官)の指揮下に入った。

12月21日、零戦9機、九九艦爆14機がウェーク島に空襲を行った。22日の空襲では零戦3機、九七式艦攻16機が出撃した。

ウェーク島到達直前、アメリカ軍戦闘機F4Fワイルドキャットの奇襲を受け九七艦攻3機(含1機不時着着水)が撃墜されるが、そのうちの1機は水平爆撃の名手として知られ、真珠湾攻撃の際に艦攻隊の誘導機を務めた金井昇 一飛曹機であった。

23日には第一波(零戦6、艦爆6)、第二波(零戦2、艦攻9)が出撃し、上陸した海軍陸戦隊の支援をおこなった。同日、ウェーク島は陥落。12月23日附で南洋部隊の指揮下を離れ、12月29日に日本本土に戻った。

1942年(昭和17年)1月7日、第二航空戦隊は南方部隊に編入された。1月18日、蒼龍はパラオ諸島に到着した。1月21日、飛龍と共に出港。1月24日、2隻からそれぞれ零戦9機、九九艦爆9機、九七艦攻9機がアンボン攻撃に向かい、兵舎群や砲台を攻撃した。この攻撃で損害はなく、1月25日にダバオ着。

2月19日、ダーウィン空襲に「蒼龍」からは零戦9機、艦爆18機、艦攻18機が参加し、艦爆1機が不時着水(乗員は救助された)した。2月21日、蒼龍はスラウェシ島(セレベス島)南東岸スターリング湾に入港した。

3月1日、偵察帰りの九七式艦攻が、クリスマス島南方でアメリカ給油艦ペコスを発見、12時55分に空母加賀が九九式艦爆9機からなる攻撃隊を発進させ、次いで蒼龍も13時9分に九九式艦爆9機からなる攻撃隊を発進させてペコスに向かわせた。蒼龍攻撃隊は、加賀攻撃隊がペコスを攻撃中の13時30分に現場に到着。加賀攻撃隊が引き上げていった後に攻撃を開始し、命中弾3発と至近弾1発を与えたが、対空砲火がすさまじく、5機が被弾した。しかし、ペコスは度重なる被弾で15時48分に沈没した。蒼龍攻撃隊は15時1分に蒼龍に帰投し、ペコスの沈没の瞬間は見ていない。

同日午後7時、蒼龍艦爆9機が戦艦比叡や重巡利根、筑摩の砲撃をたくみに回避していた駆逐艦エドサル を爆撃して航行不能とし、撃沈のお膳立てをした。

3月5日、蒼龍攻撃隊がジャワ島チラチャップを空襲して商船3隻を撃沈、14隻に損害を与えた。その後、南雲機動部隊はスマトラ島南方で脱出する連合軍艦艇の捕捉につとめた。

3月6日午前、山口少将指揮下の8隻(第二航空戦隊《蒼龍、飛龍》、第三戦隊第2小隊《榛名、金剛》、第17駆逐隊《谷風、浦風、浜風、磯風》)は南雲機動部隊本隊から分離、掃蕩を開始した。

山口司令官は第二航空戦隊の護衛に、17駆第2小隊(浜風、磯風)を残すと、第三戦隊と17駆第1小隊(谷風、浦風)をクリスマス島砲撃に向かわせた。

同日午後1〜2時、艦爆6、艦攻2が商船1隻を撃沈。午後4時に艦爆7機が商船4隻を攻撃したが、商船1隻を撃沈したのみで、決定的な戦果を挙げるには至らなかった。3月11日、スターリング湾に入港する。

3月26日、南雲機動部隊(赤城、蒼龍、飛龍、瑞鶴、翔鶴)として出撃し、インド洋へ向かう。

4月5日のセイロン沖海戦にも機動部隊の一角として参加、英駆逐艦テネドス、仮装巡洋艦ヘクターを撃沈した。さらにイギリス軍東洋艦隊を襲撃した際には、他空母攻撃隊と協同して英空母ハーミーズ、重巡洋艦ドーセットシャー、コーンウォール、豪駆逐艦ヴァンパイア、コルヴェット艦ホリホック、給油艦アセルステーン、ブリティッシュ・サージャントを撃沈した。同海戦での蒼龍艦爆隊の命中率は78%にも及び、華々しい戦果を挙げた。

4月18日のドーリットル空襲の際には台湾海峡を航行中だったため、千葉県沖にいたアメリカ軍機動部隊(エンタープライズ、ホーネット)を捕捉することはできなかった。

4月22日、横須賀軍港に戻る。この時、第二航空戦隊の旗艦は飛龍に変更され、定期人事異動によって南雲機動部隊の航空戦力は「基礎訓練の修了レベルに到達した者は一人もいなかった。未熟な航空兵は昼間着艦する段階にも達しておらず、熟練搭乗員の中にさえ明らかに腕の落ちた者がいた」という状態になる。

1942年(昭和17年)6月、第一航空艦隊の指揮下でミッドウェー作戦に参加。 5月27日、蒼龍は日本を出発した。出撃前、蒼龍の長沼道太郎機関特務大尉は、床屋から「日本海軍が行けばミッドウェーでも楽勝ですね」とおだてられたという。蒼龍の艦攻操縦員だった大多和達也は、戦後アメリカの作家から「士官が作戦を芸者に聞かせて、そこから漏れた」という話を聞いたという。

日本時間6月5日午前1時30分、南雲機動部隊からミッドウェー島への第一次攻撃隊が発進する。この時の出撃陣容は各空母共に零戦は稼働半数の9機、攻撃機は第一航空戦隊は九九艦爆の稼働全18機、第二航空戦隊は逆に九七艦攻の稼働全18機を出撃させている。九七艦攻は魚雷ではなく、800kg陸用爆弾を搭載しての出撃である。

アメリカ軍基地から発進したF4Fワイルドキャット戦闘機6機、F2Aバッファロー戦闘機19機の迎撃と対空砲火により、蒼龍攻撃隊は全機が被弾して艦攻3機を喪失(不時着2含む)、零戦搭乗員1名が重傷を負った。残る艦攻も1機が飛龍に着艦、即時使用可能艦攻は10機であった。

ミッドウェー島攻撃隊からの「第二次攻撃の必要性あり」の連絡を受け、午前4時15分、南雲司令部はアメリカ軍機動部隊出現に備えて対艦攻撃用の装備で待機させていた攻撃隊に対し、陸上攻撃用爆弾への換装を命じた。

午前4時40分、重巡利根から発進した零式水上偵察機が「敵らしきもの10隻みゆ」と報告した。午前5時20分、利根機が敵空母の存在を報告する。

この時、蒼龍は十三試艦上爆撃機の試作機を改造した試作偵察機を搭載しており、南雲忠一中将はこの十三試艦爆の投入を命じた。操縦は飯田正忠(飛曹)、偵察は近藤勇(飛曹長)であった。午前5時30分に発進した十三試艦爆は午前8時30分ごろアメリカ軍機動部隊を発見し、蒼龍の被弾後は午前10時30分に空母飛龍に着艦して情報をもたらしている。

その後、蒼龍はアメリカ軍ミッドウェー基地航空隊の波状攻撃を受け、回避行動と直衛戦闘機の発進に専念する。またミッドウェー基地攻撃に出撃した艦攻隊の収容も行ったため、アメリカ艦隊に向けた攻撃隊の発進準備は遅々として進まなかった。艦攻の収容に至っては、午前6時50分までかかっている。

午前7時以降、南雲機動部隊は米空母ホーネットやヨークタウンから発進したTBDデバステーター雷撃機の攻撃を受け、蒼龍も魚雷を回避する。この状況下、零戦隊も各艦の注意も低空のアメリカ軍機に向けられた。

蒼龍戦闘詳報では、直衛零戦の行動や連絡方法について「戦闘機使用電波を制空用・上空直衛用の2種類に分くるる不必要なるのみならず、今回の如き電波転換の暇なき場合、直衛指揮に支障をきたすことあり」「敵雷撃機に味方戦闘機集中の傾向大なり」と問題点を指摘している。

日本時間午前7時25-28分頃(現地時間10時25分頃)、蒼龍は米空母ヨークタウン所属SBDドーントレス急降下爆撃機十数機の攻撃を受けた。ちょうどミッドウェー島攻撃から戻ってきた第一次攻撃隊艦攻搭乗員達が、搭乗員待機室で食事を取っている時だった。

砲術長が気付いて対空射撃を行うもアメリカ軍機の阻止には至らず、投下された1,000ポンド爆弾三発がそれぞれ三基のエレベータ付近に一発ずつ命中した。一発が格納庫下段、二発が格納庫上段で炸裂する。

当時の蒼龍には第一航空戦隊(赤城、加賀)の様に時間の掛る陸用爆弾から魚雷への兵装転換ではなかったものの、第二次攻撃隊として出撃予定の爆弾を搭載した九九艦爆と、帰艦した第一次攻撃隊の九七艦攻に搭載する為に左舷中央部艦底にあった魚雷調整場から格納庫に揚げられていた魚雷18本があった。それらが次々に誘爆を起こし深刻なダメージを与えた。

日本空母の弱点であったダメージコントロールの低さも災いしたが、被弾の時点でもはや手がつけられず被弾からわずか15分後の午前7時45分に総員退去が下令される。

大部分の乗組員は炎に追われ、また爆風で海に吹き飛ばされた。救助にあたった磯風は蒼龍脱出者に対する米軍機の銃撃を目撃している。午前8時12分、重巡筑摩(艦長古村啓蔵大佐)から救援人員を乗せた短艇が到着した。

南雲司令部は第17駆逐隊第2小隊(磯風、浜風)に対し、蒼龍護衛と北西への退避を命じる。だが午後2時に磯風から南雲司令部(長良)に対し、蒼龍航行不能と今後の行動指示を乞う旨の返答があった。

午後2時32分には、火災が一旦鎮火したという報告が入った。乗員の駆逐艦への移乗を開始し、午後3時2分、17駆第2小隊(磯風、浜風)は蒼龍の生存者を収容した。その後火災が少し収まったので、楠本幾登蒼龍飛行長は防火隊を編成して再度乗艦の準備を始める。直後に再度の爆発が起こり、救出は不可能と判断された。

乗組員達は柳本柳作蒼龍艦長に脱出するよう懇願したが、拒否される。柳本艦長の最期には、艦橋の炎の中に飛び込んだ、ピストルで自決した、など諸説ある。

日本時間6月5日午後4時13-15分(現地時間6月4日19時13分)、蒼龍は日没と共に沈没した。浜風に救助された艦攻操縦員の大多和達也は、大爆発と共に蒼龍中央部に水柱があがると艦尾から沈んだと述べている。

柳本艦長以下准士官以上35名、下士官兵683名、計718名が戦死、その中には艦内の火災で脱出不可能となった機関部員が多く含まれていた。機関科の脱出者は定員300名中、30名弱でしかなく、弾薬運びなどの応援作業に派遣されて機関室にいなかった新兵が中心だった。

搭乗員戦死者は機上6名、艦上4名の合わせて10名(戦闘機4名、艦爆1名、艦攻5名)で、江草隆繁飛行隊長以下、搭乗員の多くは救助された。直衛隊の零戦数機が飛龍に着艦して戦闘を続けたが、同艦沈没と共に全機が失われた。

戦闘詳報による蒼龍の沈没位置は北緯30度42分5秒 西経178度37分5秒。のちに生存者は磯風から水上機母艦千代田等に移り、日本本土へ戻った。

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参加メンバー 3人
開設日
2019年2月9日

2317日間運営

カテゴリ
学問、研究
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